四
船津の説明をきいてから祁答院はほとんど口をきかなくなった。毎朝回診に行きガーゼ交換をするが彼からはなにも云わない。
「如何ですか」
「ええ」
「痛みますか」
「少し」
といった調子で、それもいかにも投げやりである。
「御飯は食べていますか」
「三分の一が精一杯です」
祁答院に代って妻のかね子が答える。あと一年余の命で、すべてが死に繋がるとあってはものを云う気力もなくなるのも無理はなかった。それにしても素気ない。
これに対し船津はことさらに平静を装っていた。患者が悄気《しよげ》ている時に医師まで弱気では条件は悪くなる一方だ。一度、冷徹な態度で出た以上、その線で貫かねばならない。一つの苦しさを通り抜けた上で芸術家としての根性で再起して貰おうというのだから妙な同情や憐憫をかけるべきではない。今の苦しみが祁答院のこれからの一年の仕事の上に開花することを船津は信じている。
「人工肛門があるのですから、もういくら食べても平気です。どんどん食べて栄養をとるのです」
船津は祁答院夫妻の気持など顧みず、はっきりと云う。ここでは祁答院は画壇の大御所でも芸術院会員でもなく単なる直腸癌の患者にすぎないのだ。
「食べたら出るのですね」妻が恐ろしげに尋ねる。
「当り前です。肛門ですから」
二人は顔を背ける、だが事実はどうしようもない。どう隠しても横っ腹から便が出てくることは時間の問題であった。彼等はもう何も云わず祁答院は目を閉じ、妻は窓へ目を向けている。
この状態は、綾野部長の回診の時にも変らなかった。
「随分創がよくなりました」
沈黙にたまりかねたように綾野部長が愛想じみた言葉をかけるが、祁答院は相変らず老人には端正すぎる顔を上に向けたまま眼を閉じている。死ぬと分っている以上創がよくなったからといって何の意味があるのか、彼の横顔はそう云って部長へ挑戦しているかのように見えた。
第一回の手術の前日から祁答院の病室に貼ってあった「面会謝絶」の貼り紙は二度目の手術のあと七日目で取り外すことになった。船津は看護婦に命じてそれを取り外させたが翌朝、回診に行くと祁答院は久しぶりに自分から口をきいた。
「面会謝絶の貼り紙はもう少しつけておいて欲しいのです」
「もう決まった面会時間内であれば、私達の許可なしに自由にお逢いになって結構なのですよ」
「いえ、しばらく人には逢いたくないのです」祁答院は天井を見たまま答えた。
「分りました、看護婦にもう一度貼らさせましょう」
祁答院は一人になりたがっているのだった。
実際名士だけあって、彼のところに見舞に来る人は夥しい数であった。弟子や同門の人はもとより画壇の大家から中堅、評論家、さらには政界、財界まで彼の絵と社交性によって広がった知己が次々と訪れた。手術の直後には勿論面会謝絶であったので、妻のかね子が控え室でそれらの人達に対し、贈り物を受けとっては挨拶をくり返していた。見舞に現われる者のなかには、単なる見舞というのを越えて、病気になったのを機に近づき、何かの折によくして貰おうという魂胆の者もかなりいるようであった。
祁答院は第一回目の手術のあと三日くらいはさすがにぐったりとして、人に逢う気力はなかったが四日目頃からは控え室の物音に耳を澄まし、妻が応対をすまして戻ってくると、誰がきたと尋ね、人によっては是非逢いたかったと文句さえ云う程に恢復していた。何事にも好奇心の強い祁答院にとっては創が痛むとはいえ、日がな一日床の中で暮すのにはさすがに退屈していたのである。
それが急に人に逢いたくないと云い出したのである。しかも第一回目よりはるかに軽い二度目の手術のあとで一週間以上も経ってからである。船津の死の宣告が祁答院の心を深く虐《さいな》んでいることは明らかだった。
十日目、抜糸のあとも癒え、祁答院の横腹に新しい肛門が完成された。創の周囲にはまだ軽い腫れがあり、先端部の粘膜にも部分的に炎症が残ってはいたが便の通過はすでに始まっていた。
晒をとり、オムツを除けるとすぐ便の匂いが漂ってくる。薄いガーゼの表面からは黄ばんだ便が見透せた。直腸と肛門を通らないとは云え、胃、小腸、大腸と消化吸収の過程は全部終えてくるのだから匂いも色も普通の便と変らないのは当り前である。
妻のかね子はそれを無器用な手つきで新聞紙にまるめ捨てに行く。二人の娘の世話以外、これといって手間のかかる仕事をしたことのないかね子にとっては予想もしなかった作業であった。
自分の横腹から出る便を初め祁答院はそろそろと怯えたように目を向けた。しかし赤い口から出てくる奇怪な情景を見た途端、「あっ」と小さく叫んで目を伏せた。たしかに腹から便が出る図は奇異なものである。それが自分のお腹だとしたらそれは一層無気味である。便をとる間、祁答院は目を閉じひたすら早く終るのを念じるように唇を強く噛みしめながら耐えている。人間なのに人間とは思えない様子で便を出す。その異様さは祁答院に痛み以上の苦しさを与えていた。
祁答院の顔が細くなり衰弱が目立ち始めたのはこの頃からであった。六十三歳という老齢に加えて、二月の初めから一カ月に二度に亙る手術を重ねたのであるから体が衰えるのも無理はなかった。だが一度目より二度目の後の方がはるかに衰えは激しい。しかも夜勤の看護婦の話では毎晩のように眠り薬を要求しているという。その量も三日に倍くらいの割で増えていく。
「あの先生、昨夜はウイスキーを飲んでいたようです」
「酔っていたのか」
「酒くさくて、布団をあけると中からウイスキーのビンが出てきたのです」
「それで」
「偉いお方だと云うので注意だけにしておきましたが先生からもきつく仰言って下さい」
「分った」
約束したが船津には祁答院を叱る気持にはなれなかった。彼の衰弱が目立ち始めたのは、たしかに船津が不治であることを宜してからであった。祁答院を不眠に追い込み体力を奪ったのは船津自身に違いなかった。はっきりと告げ、徹底的に苦しませるのが船津の狙いであった。そこからいいものが生れる。きっと生れる筈だと彼は信じていた。だがあれから半月を経たが何も生れてはいない。生れるどころか苦しみ弱らせているだけだった。このままでは一年どころか半年もせずに全身衰弱で死なないとも限らない。最悪の場合には自ら命を断つおそれさえある。祁答院のこの頃の表情は普通ではなかった。痩せて頬骨ばかり張り、幽鬼のように蒼ざめ呆んやりと宙を見詰めている。いろいろ問いかけてもほとんどがうわの空である。生きた骸《むくろ》に近い。
(もし告げなければ今頃は絵筆をとり出して窓からの風景くらいはスケッチし始めていたかもしれない)
やはり間違いであったか、船津は少しずつ悔いを覚え始めていた。
祁答院の衰弱は医局でも話題になった。
「まだ他に悪いところがあるのではないか、あの弱り方は普通じゃないぞ」
「いくら癌といってもあんなに急激に進むわけはないな、この一カ月で五キロは痩せたろう」
同じ病棟の医師達が交互に云った。科が違っても祁答院のことは皆が興味をもっていた。
「精神的な問題ではないかね」
いろいろな意見のあとで綾野が云った。
「どうかね、船津君」
「残念ながら……」船津は認めざるを得ない。やはり自分の考えは理想論であったのかもしれない。あと幾日で死ぬと云われて揺るがない者はいない。いや揺らぐのが当り前なのだ。あの人だけはと思ったが間違ったようである。とやかく云っても芸術家である以前に、人間はまず人間なのだ、という平凡な事実を忘れていたようである。船津は自信を失っていた。
「そうだとすると単なる医学治療では治らないね」
綾野がたしかめるように云った。
「どうすればいいかね」
聞かれても誰も名案はない。暫くして綾野が云った。
「絵具でも筆でも、絵の本でもいい、とにかく絵のことを思い出させることだ」
「………」
「絵一筋に生きてあれだけになれた方だ。絵に関わりのあるものを見せたらきっと絵を思い出される。思い出したらじっとしてはいられないはずです」
綾野の方針でやってみるより今の船津には方法はない。