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宣告05
日期:2017-02-27 17:33  点击:328
     五
 
 祁答院の枕元にカレンダーがある。その一日一日が赤い×印で消されていく。一日消えていくことは一日、死が近づいていることである。それを知りながら彼は妻に赤い×印を書かせているに違いない。
 船津が祁答院に告げてからすでに一カ月近い月日が経っていた。綾野に云われたとおり絵の話をしかけようと船津は時をうかがっていた。しかし一般の人ならともかく、画壇の巨匠に絵の話を持ち出すのはいかにも難しい。あまり幼稚なことを云っては一笑に付されようし、なまじっか知ったようなことを云っては却《かえ》って笑われる。何をどんな風に云い出せば祁答院は絵の話にのってくれるのか、そして絵に再び情熱を持ちはじめるか、その辺りのことは皆目見当がつかない。
 だが船津の気持を察したように、その機会は意外に早くやってきた。しかも向こうから云い出してきたのである。
 その日、船津は、いつものとおり本来の肛門の方のガーゼ交換を終えたあと、左脇腹下の人工肛門を見た。部屋には防臭剤をふりまいてあるが入った瞬間、匂いがあたりをおおう。ガーゼの下には例によって自然排出された便が溜っている。出ているのをきれいに拭きとり脱脂綿で人工肛門の周辺を清める。口に近い粘膜と皮膚は腫れも赤みもなく、前からそこが肛門ででもあったように、腹の横に堂々と控えている。
「不思議なものですねえ」
 いつもは眼をそむけ、屈辱に耐えている祁答院がその日はきちんと傷口を見詰めていた。忌み嫌うとか恥じるというより、興味にかられたといった表情である。
「たしかに生きているのですね」
 祁答院は当り前のことを云った。たが彼にとっては全く新しい発見のようであった。
「見事なものですね」
 呟きながら彼はなおその臭く醜怪な局所がおしめでおおわれるまで、見続けていた。
「一つ絵を描いてみたいと思うのですが」
 回診のあと祁答院が急に改まった口調で申し出たのは、この翌日のことであった。死の宣告を受けてから丁度四十日目である。
「結構ですよ、特に疲れない範囲でおやりになって下さい」
 痩せてはいたが、立っても坐っても人工肛門自体にはなんの影響もなかった。
「スケッチだけでもやってみようと思います」
 翌日から祁答院のベッドの横に伸縮自在の安楽椅子が持ち運ばれた。ようやく春めいたやわらかい陽射しの中で、彼は椅子に背をもたれて見舞客の持ってきた梅の鉢植えを写生し始めた。濃紺の大島を着て画布に向かった姿は癌患者で脇腹に人工肛門をもった老人とは思えない。
 だが祁答院が生き生きと見えるのは木炭を持ち画布に向かった時だけであった。木炭を離し安楽椅子に横になった途端に彼の顔は十歳以上も老け込み、眼の縁には黒い隈ができた。癌細胞とともに精神的疲労が着実に祁答院の体を虐んできているのだった。
 だがたとえスケッチとはいえ絵を描く時だけ若返って見えるのは祁答院の芸術家としての力に違いなかった。その時だけ彼は間違いなく充実しているようであった。船津にとってはこういう瞬間が訪れるのが目的であった。こうした瞬間がやがて偉大な傑作を産み出すことへ繋がっていく筈だった。
 しかし船津は今になってもなお、祁答院に死期を告げたことは間違いであったかもしれないという不安にとらわれていた。初めの頃の医局員全員を前に一人で論じたような自信はもうなかった。たしかに死を知らされてから祁答院は少しずつ変ってきていた。初めは一言も云わず死の恐怖でうちひしがれている時期があった。やがて自分の運命を知り、体が衰えてきている事実を知るにつれ、彼は死の訪れが確実な未来であることを知ったようであった。怖れ苦しんだ末に彼は絵に向かい始めた。絵に向かう時、彼は見事に若返る。そこまではたしかに船津の計算どおりであった。
 だが彼はそのいい方へ向いている時だけしか計算に入れていなかった。絵を描き始めれば、それへの執着心が芽生え、気力でさらに長生きするのだと思っていた。一ついい方向に向き出せば、すべてがそちらへ動き始めるのだと思っていた。しかしそんな簡単なものではなかった。祁答院が絵に向かっている時は一日のうちほんの数時間である。その時は死を忘れ、絵に執着するがそれ以外の無限に長い時間を、彼は近づいてくる死への恐怖にとりつかれているのだった。そのことは絵に向かっている時とそうでない時の祁答院の態度で分る。絵に向かっている時、あれほど輝いた眼が、床に入った時は無残に力を失い虚ろに宙に浮いている。時には眼を閉じ眉だけ苦しげに動かす。表は穏やかなようだが心の底で波立っているのが分る。死の恐怖が彼の脳裏を離れていないのである。この恐怖の長い時間のため、祁答院は食欲を失い、体力を損耗していく。このマイナスは数時間の絵に向かう時間で補えるものではない。
 プラスとマイナスを相殺するとマイナスの方がはるかに多い。そして何よりも絵らしい絵は一枚も書かれていないのである。
(やはり自分の考えは過酷であったか)
 船津は祁答院の必要以上に冷静を保とうとする努力を感じる度に、手をついて謝りたい衝動にかられた。
 
 四月になった。病院の中庭の桜がこぼれるほどの花を咲かせた。芝生は薄く色づき昼休みには看護婦が車椅子や松葉杖の患者につき添って陽をうけているのが見えた。
 祁答院が死を知らされて二カ月の日が経っていた。初めの予想から云うとあと半年少しの命だった。だが彼の体重は術前の六十五キロから五十七キロまで落ちていた。二カ月に七キロ余痩せたことになる。こんな調子で痩せていくと半年もしないうちに彼の体重は子供以下になってしまう。
「何を食べられても構いません。欲しいというものをどんどん差しあげて下さい。点滴とか補液というのは最後の手段で、口から食べれるうちは口から摂《と》るのが一番いいのです。栄養分を吸収する腸はまだ侵されていないのですから食べさえすれば太って抵抗力ができる筈です」船津が云うと、
「私もそう思って少しでも食べてみたいというものはすぐ取り寄せて差しあげるのです。しかしほんの一口か二口、口をつけただけですぐいらないというのです。先日も毛がにを食べたいというので北海道からわざわざ取り寄せたのです。そうしたら脚の肉を一本分食べただけでもういいというのです。折角取り寄せたのに勿体ないやら情けないやら、なんとも云いようもありません」
「何とか食べようとするのが、かえって食べられなくなるのかも知れませんね」
「それでも食べたいものは次から次と思い出すらしいのです。先日は突然、鮑《あわび》を食べたいと云い出したり、死期が近づくと食べものは子供の頃食べたものに戻るのでしょうか」
「そうなのかもしれません」
 祁答院の生地は外房のK市ときいた。その海へ潜って鮑をとったのだろう。死の影に怯えながら彼は少年の頃の夢を見るのかもしれなかった。
 
 その外房K市に祁答院が行ってきたいと云いだしたのは四月の半ばであった。
「往復は車にします、ほんの二、三日でいいのです」
 祁答院は静かに頭を下げた、ひと頃のように医師を無視したり、抗《さから》う態度はとらなくなっていた。
「先生がお生れになった所ですね」
「そうです。暖かくていい所です」
 小康を得ているとはいえ、その体内には巨大な癌腫が根をおろしている。肛門からはまだ排液があるし、人工肛門の処置もしなければならない。一泊以上の旅行はなかなか面倒なことだった。
「一日では行って来れませんか」
「一日ですか」
 祁答院は目を閉じた。遠い潮騒に聞いているようである。
「町を御覧になるだけですね」
「そうですが……」祁答院はそこで目を開いた。
「絵を描こうと思うのです」
「K市のですか」
「そうです」祁答院は再び目を輝かせた。
「これが最後の絵になるかもしれません」
 そうであったのか、船津はいま祁答院の意図が分った。死を目前にして彼は故郷の絵を描いておこうというのである。それが彼がこの世に残していく最後のものになるに違いなかった。彼の全生命力を尽して描こうとしているのだ。船津には祁答院のK市行きを止める理由はなかった。
「よろしいですよ、いってらっしゃい」
「幾日?」
「幾日あればいいのです」
「二日あればスケッチだけでもなんとか」
「創だけはK市の病院でガーゼ交換をして貰って下さい、依頼状を書いてさしあげます」
「大丈夫でしょうね」
「大丈夫です。貴方なら大丈夫です」
 今度こそ絵に燃えている。絵に執着している間は死ぬわけはないと船津は思った。
 往復を入れ三日間の旅行を終え祁答院が帰ってきたのは四月の十五日であった。東京より平均二、三度は高い外房はすでに初夏であったという。
 久し振りに故郷に行き、海を見、澄んだ空気を吸って祁答院は陽気になっていた。誰かれとなく掴まえてはK市の自慢話をする。生れた土地へ行って祁答院は急に子供に舞い戻ったようである。
 だが六十三歳の癌末期の老人には、三日間におよぶ車の旅はかなり応えたらしく言葉とはうらはらに肌は黒ずみ、痩せていた頬はさらに一層落ち窪んだ。
 帰ってきた翌日、祁答院は軽い発熱をみた。三十七度五分と、熱としては高いものではなかったが癌のことを考えると、無気味であった。癌が広く拡がり、癌細胞が全身からの養分を吸い出すと、いわゆる悪液質という状態になり微熱が続く。ただでさえ体力を消耗する発熱は、すでに体力の衰えた癌患者にとっては致命的である。多くはこのままの経過をたどる。
 船津は綾野の指示をうけて点滴を始め、解熱剤と栄養剤を加えて体力の恢復をはかった。
 微熱で祁答院の顔はかすかに赤らみ、眼は潤んでいた。それでも彼は話すことを止めない。面会謝絶は今こそ必要なのだが祁答院は控え室の方に聞き耳を立て、誰かれとなく逢いたがった。逢って話をしていてもすぐ疲れるのに、少し休むとまたすぐに逢いたがる。体が弱ってから彼は急に人懐っこくなったようである。
 連日の点滴のせいか、熱は十日目でほぼ平熱に戻った。それでも朝方や夕方に時々微熱をみる。日中体を動かしたために夕方から夜にかけて出る、といった普通の熱の出方と違うところが癌の熱を思わせた。
 祁答院が背から腰にかけて痛みを訴え出したのはこの熱がおさまりかけた四月の末からであった。腰の痛みは前から時々訴えていたが、今回のは前のどれにも増して激しく頻繁におとずれた。どんなに機嫌よく喋っていた時でもこの痛みが襲ってくると突然無口になり顔が蒼白になる。それを見てとると妻のかね子は直ちに客に引き取りを願う。
 痛みは階段を登るように徐々にその頂点に達してくる。その時、祁答院は体をまりのように丸めシーツに口をおしつけて獣に似た低く重い呻きをくり返す。
「ついにきたね」綾野はかすかにうなずいて麻薬を射つことを命じた。
 癌は上に拡がり、その一部は背から腰の神経の中心である腰部神経叢を侵し始めたのである。直腸癌や子宮癌の末期によく見られる症状である。
 痛みは日に一度、きまった敵襲のように訪れた。その都度麻薬を射つ。神経の根本を襲う痛みには麻薬以外ではおさえることができない。
 だが強い麻薬を射つことはそれだけ体力を消耗させることになる。薬が効いている間、体も一種の麻痺状態になっているのであるからその消耗は著しい。体のことだけから云えば射たぬにこしたことはないのだが、それでは激烈な痛みに耐えられるはずもない。船津は祁答院の体が確実に衰えていくのを知りながら薬を射ってやった。
 いずれにせよ長くない命である。楽にさせてやるのが医者の努めであると今はもう、彼は割切っていた。
 それにしてもK市へ行かせたことは誤りであったかも知れない、と船津は思った。熱が出、痛みが激しくなったのは明らかに旅行以来であった。いずれ出てくる症状とは承知していたがこう急に進むとは思わなかった。旅行を許したのは「故郷を描いて死にたい」という祁答院の願いに心を動かされたからである。それで偉大な芸術家が一生の最後の締めくくりをするのだと考えた。行かせることが医者というよりも祁答院の芸を愛する者の務めのように思った。だが結果は悪い方に向かっただけであった。絵筆を待つどころか死期を早めただけである。それは今回だけの誤りではない。
「芸術家にだけは死期を告げた方がいい」とする考え自体がやはり甘かったのかもしれない、船津は心の中で祁答院に謝っていた。

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