八
祁答院正篤か突然胸苦しさを訴え死亡したのは、それから十日後の九月末であった。倒れたのは弟子達が帰って一時間経った午後六時で、画面の前の椅子に身を横たえていた彼が、妻に支えられてベッドへ移ろうと踏み出した時であった。
「うっ……」と突然、彼は小さく叫ぶと胸をおさえてその場に崩れ落ちたという。
すぐ船津が駈けつけ、看護婦とベッドに運び込んだが、仰向けにした時にはすでに脈はなかった。聴診しても心臓の鼓動は聞こえない。酸素吸入も注射もする暇がなく祁答院は息をひき取った。いつか訪れる死だとは思っていたが、いざその場になってみると意外に呆気なかった。かね子はまだ信じられないようにその場につっ立っていた。
死因は癌転移による全身衰弱から生じた心不全と推定された。体のすべての機能が無理に無理を重ねられてきたのだった。手術後、一年という推定死亡時のほぼ半分ということになる。
「いよいよ明日はサインを入れるだけだと、弟子の方達が帰ったあと一人で一時間以上も眺めていたのです」
かね子は突然の死に、涙を流す余裕もなく船津に告げた。すべて尽しきったという満足感が彼女をとらえているようであった。
「こんなに汚れちまって」
絵具の床に倒れたので祁答院の死顔には赤、青、黄と、とりどりの飛沫がとび散っていた。かね子はその飛沫をゆっくりとハンケチで拭き取った。
「描き上って、安心されたのでしょう」
心不全より、描き上ったことが祁答院の死因なのだと船津は思った。
「皆様に連絡をしなければ」
拭き終ってからかね子は詰所の電話口へ向かった。
看護婦達は死後の処置を始めた。
船津はドアを開けアトリエになっていた病室へ入った。三十号の画が壁にたてかけられている。咲き乱れた花が画面の手前から彼方へ一直線に続く。どれ一つとして同じ花はない。すべての花が歓喜に酔いしれ、揺れ動いているように見える。匂うばかりの花の先に海が開ける。海も野も花も、すべてが生きている喜びを唱っている。
「見事だ」
見るうちに船津の体も揺れ動きそうになる。手をつなぎ、大声をあげ海へ駈け出したい気持になる。
「先生、人工肛門の処はどうしましょう」
控え室から看護婦の声が聞こえた。
「うん、いまいく」
戻りかけて、彼はふと立てかけた画面の陰にもう一つの麻紙を貼った木枠の端があるのに気付いた。横から見るとそれは十号程の大きさである。
「二枚書いたのだろうか」
船津はそろそろと引き出した。画面は裏になり逆さまになっているようだった。彼は取り出してから、大きな画面の横に並べた。
「あっ」
瞬間、船津は息を呑んだ。声を殺して彼は改めて目を凝らした。
十号の画面全体に幾組もの男と女が描かれている。どれもが全裸のまま様々な形で寄り合っている。ある者は交合し、ある者は迫っている。中央に大きくのけ反っている女の裸像がある。空へ向けた女の表情は歓びに震えているようで、苦しみのたうっているようにも見える。それはかね子夫人の顔のようでもあり、違うようにも見える。どれもが何度も何度も絵の具を塗りこまれたらしく、丹と朱のどぎつい色彩をほどこされている。
明るい房総の春と全裸でのたうつ男女の姿がある。どちらも祁答院が描いたものなのに、二つの間には天と地ほどの違いがあった。
「先生」
看護婦がまた呼んだ。
「いま行く」
答えながら彼はもう一度二つの画を見つめた。
陰と陽がそこに並んでいる。それはとりもなおさず祁答院正篤の中に住む陰と陽なのかも知れなかった。
「二つとも署名がない」
呟きながら船津は、祁答院に死期を告げたのは良かったのか悪かったのか、もう一度自分に問いかけた。