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猿の抵抗01
日期:2017-02-27 17:35  点击:454
     一
 
 今朝早く、滑稽なことを発見した。実は昨夕来、今年十五番目という台風が吹き荒れて、寝つかれずに困ったのだが、それはついでにちょっと愛嬌のあることを仕出かしていった。
 私の入っている病院は医科大学の付属病院だが、私の病室からはプラタナスの並木のある道路を隔てて医学校の西玄関が見える。
 もう一と月にもなるが、この学校の出入り口には、道路に面して二尺四方の広告板が立てかけてある。中央には横髭の異様に長い黒猫の面相が描かれていて、その左下に次のような文句が赤と黒のペンキで書き込まれている。
 ──ネコ買います
      一匹、五十円
        薬理学、生理学教室──
 通りかがりの人は「ほほう」といった表情で立止り、この立看板を眺めては、いろいろ神秘的な空想を巡らすらしかった。
 買われた猫はどんな実験に使われ、最後はどのようにして殺されるのか、彼等は医学校の中で行なわれる科学的な殺傷に、少しばかりの無気味さと好奇心を抱くらしい。時には駄々をこねる子供へ、親がこのあまり上手でない猫の絵を指しながら宥めすかす情景もあった。
 私はその看板が一枚の板で出来ているのだと思っていたが、今日、そうでないことが分った。上半分の猫の顔が描かれている方の板は強風で歩道の端に転げ落ちていた。すなわち猫は落首したわけである。しかもおかしなことには、二日前から学校講堂で行なわれていたらしい「人類学地方会」と書いた大きな貼り紙が千切れて、それがどうした風の吹き廻しでか、下半分残った猫の看板に引っかかっているのだった。
 紙切れの折れ具合によって、それは奇妙な読み方になっていた。
 ──人類 ネコ買います
      一匹、五十円──
 私はこの発見を、早速隣りのベッドの金子さんに告げた。
 表具師をしていた金子さんは、肝臓が悪くて、お腹に水がたまるたびに針を刺してとり出すという面倒な病気にかかっていたが、私が云うと上半身だけ伸び上って、窓の外を眺めた。
「これは傑作だ」
 案の定、金子氏は笑ったが、すぐ生真面目な顔になり、「案外、そんなものかも知れませんよ」とつけ加えた。
 三十分して病室の他の二人、石川氏と佐野君も目覚めた様子なので、私は早速、看板のことを告げた。
 胃潰瘍の佐野君はちょっと苦笑したが、高血圧の元小学校校長の石川氏は険しい表情で私を見返しただけで、すぐ新聞へ目を移した。彼等は予想した程、おかしそうな顔もしなかったので、私はいささか気合抜けしてしまった。
 六時の検温の時、私はそのことを一本線の入った帽子の、小肥りの看護婦に告げてみた。彼女は窓ガラスへ鼻を圧しつけるようにして見ていたが、突然、頓狂な声をあげて笑い出した。黄色い、少し野卑な声が続いたが、急に思い出したように声を呑むと、
「貴方は暇人ね」と云い残して部屋を出ていった。
 ちょっと笑わせてやろうとしただけなのに、そんな冷たい云われ方をしたのに私は不満だったが、皆はもう忘れたようにベッドへもぐり、静かに体温を測り始めた。
 私は気になって昼まで何度も、その看板を眺めていたが、昼食で私がちょっと目をそらしているうちに、「人類」の方の紙片は消えていた。
 
 桐田医師が現われて、
「明日、午後三時から学生実習に出て貰う」と云ったのはその日の午後であった。
「なにをするんですか」
「別に心配はいらないよ、貴方は何もしなくていいのだから」そう云うと、
「解ったね」と念を押した。
 私は少しも解らなかったので、トイレに行ったついでに詰所に寄って、そのことを看護婦さんに尋ねた。彼女達は私の顔を見て笑いながら、
「学生さん達に、貴方の症状を見せる訳よ、云われたとおりにしていればいいのよ」と云う。話を聞けばいかにも簡単そうだが、果して勤まるのか、私は何となく不安で落ちつかなかった。
 夕方、二人の学生さんが、明日の実習の下調べだと云って現われた。彼等は本を開き、ノートをとりながら私に、これまでの病気の経過や家族のことを尋ねた。
「年齢は」
「五十五歳」
「子供さんは」
「二人」と云って私は戸惑った。正しくは「二人いた」というのが当っている。もう半月で妻と正式に離婚ということになる。そうすればあの子達も、戸籍上、私の子供ではなくなってしまうからである。
「職業は」
「御覧のとおり、無職です」
「病気になった頃のことですよ」と学生がきき返した。
 戦前ではS市でも少しは知れた大きな呉服屋を父から継いだ。私立の大学を卒えて二年目だった。店が傾き、戦争に行き、帰ってきて、しばらく売り食いをして暮した。あの頃から私の運は急速に傾きだした。銀紙の包装を作る会社を興して失敗し、追討ちをかけるように株に手を出して大きなミスをした。一年間、石油会社に勤めたが長続きせず、保険の外交をやった。そこも嫌気がさして一年と続かなかった。一時は踊りを教える妻の収入だけが頼りだった。病気で脚が不自由になってからは義兄の処で居候みたいにぶらぶら過すことになった。結局、生活保護の適用を受けたが、この十年はやはり無職というのが当っているように思った。
 学生は私の頭から脚先までを何度か検べてから、「明日はしっかり頼むよ」と云って帰っていった。

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