二
翌日、午後二時半に馴染みの肥った看護婦が私を迎えに来た。
彼女は例になく私へ甲斐甲斐しく、スリッパを履かせ、丹前を着せると、抱え込むようにして運搬車へ乗せた。同室の人達は車に乗せられた私を憐れむような眼差しで見送った。
講堂は四階の外科の医局の奥の突き当りにあった。部屋は噂に聞いていたように扇形に広がった席が階段状に高くなり、その要《かなめ》に当る一番低い処には教卓があり、その前にベッドが一つ置かれていた。
白衣を着けた学生達が思い思いに煙草をふかしたり、話し合っていたが、こんなに多くの人達に見られるのかと、部屋を見ただけで私は怖気づいてしまった。
十分して桐田医師が入って来ると、学生達は一斉に席につき、静かになった。看護婦が私に中央のベッドに横になるように命じた。私は彼女の手を借りながら脚を引きずってベッドへ近付いた。
以前、私は甲子園のマウンドに立ったことがあるが、其処はあそこの感じによく似ていた。そそり立つマンモススタンドの中央低地で、私は仰向けに寝そべったわけである。
桐田医師は何やら私には分らない医学用語を交ぜながら説明を始めた。ところどころの日本語から、それは多分、私の病気の経歴のことを喋っているのだろうと思った。
ともかく、私はその日、随分多くのテストを受けた。
まず私の足が、歩く時に丁度鶏が足をすぼめて歩くのに似ているのを見せることから始まり、意味の分らない検査まで、私はただ、桐田医師の命じるままにおこなった。
例えば、一番簡単で不思議な検査は、|指・指交差試験《フインガーフインガーテスト》というのであった。
これは両手を思いきり左右に開いてから、両手の人差し指を次第に近付けて、鼻の前で両方の指先を合わせる試験である。
最初、私は目を開けたままやらされたが、これは簡単に出来た。それを見届けてから、
「今度は目を閉じて」
と桐田医師が命じた。
私は前と同じ気易さで試みた。ところが、人差し指の先がそろそろついた頃かと思った時、学生の間から軽いざわめきが起った。私はもうぶつかる筈だと思うのだが、一向に指先が触れ合う感じはない。
どうしたことかと思いきって指を進めた途端、指先は行きすぎて反対側の手首に当ってようやく止る始末だった。
二度目の失敗の時、今度は学生の間から「ほう」という溜息が洩れた。正常の人は目を閉じても両の指先は中央でスムーズにぶつかるらしい。桐田医師が黒板に何やら横文字を書き、再び簡単な説明を始めた。
学生達にはこのテストは余程興味があるらしく、私は何人もの学生に繰り返しやらされた。アンコールの度に目を閉じるときまって指先は合わない。何回もやらされると、さすがに私は情け無くなり、思うとおりにならない自分の指先にいささか腹が立ってきた。
不思議な検査はまだあった。これも実習に出されて初めて気付いたのだが、膝の下を叩かれた時、脚がはね上る反射が私にはないのだった。堅いゴムの頭のハンマーで、膝骨の下をいくら叩かれても私の脚は一向に上る気配がない。子供の頃、脚気になると上らなくなるときいて、悪戯《いたずら》半分に友達とやり合ったことがあるが、それが現実となって脚は他人の脚のようにぴくりともしない。
悲しくなる検査はまだあった。
学生達が筆と針の先で、いろいろな個所に触れながら「触れたか、どうか」と尋ねるのだが、不思議なことに私の足の裏は触れられても一向に感じない。
「どうですか」
何度きかれても、全く感じない私にはどうとも答えようがないのである。
「前に寄って」
最後に桐田医師は学生を私のまわりに呼び寄せた。それで二、三十人の白衣の人が一度に私のまわりを取り囲んだ。
「いいかね、光の入った時の瞳孔の状態をよく見ておくんだ」
桐田医師は学生達にそう云うと、横に隠し持った懐中電燈をさっと私の目に当てた。不意に襲った眩しさに思わず目を背けると、
「駄目、真直ぐ前を見ている」
と桐田医師の鋭い声がとんだ。仕方なく目を開けると二十人もいる学生が一斉に私の目の中を覗き込んでいる。
大勢の人に顔を見られるというのは気持のよいものではないが、この時のように顔の表情ではなく、目の玉だけを見られるというのもまことに奇妙な感じである。全く不思議なことだが、彼等が関心あるのは、顔の中の私の目だけなのである。どうも私は人並みでないらしい。
そんなことを何度か繰り返されて、小一時間ほどしてから私はようやく病室へ帰された。なんとか御無事に帰還というわけである。
部屋へ戻るとすぐ、隣りのベッドから金子氏が「どうでした」と声をかけてくれた。だが「いや、別に」と私は適当に答えただけで早々に床の中にもぐり込んだ。
格別、運動したわけでもないのに、ひどく疲れた気持だった。毛布を頭までかぶり、目を閉じると、出口の処で私が丹前の前を合わせている時、桐田医師の云っていた言葉が思い出された。
「こういう典型的な症状を揃えているケースはもう二度と見れないかもしれない。一度実際に見ておくと決して忘れないものです。トリアスを立派に備えている貴重な症例です」
と生徒に云っていた。それを聞いて私は今更のように自分の病気が桁《けた》外れた無気味なものに思われた。勿論、梅毒は大変な病気だけど、それからきたらしい脊髄癆《せきずいろう》というのが、こうまで珍しく、彼等にとって貴重な病気であるとは思ってもいなかった。
私がこの大学病院を訪れたのは、今から六カ月前で、その時、外来で初めて私を診た桐田医師は「すぐ入院しなさい」とその日のうちに急患用のベッドを開けて入れてくれた。云われた時、私が戸惑ったのは経済的な面であったが、彼は「心配しなくていい」と云ってかすかに笑った。
翌日、私は入院したわけだが、自分のような貧しい者が大学病院に、こんなに簡単に入れるとは夢にも思っていなかったので、桐田医師に感謝し、申し訳なく思っていた。
だが今の私の彼への感じ方は大分違っている。正直のところ、彼へはあまり期待をかけていない。確かに彼は一生懸命、私の病状を検べ、それをカルテに丹念に記載してはいくが、肝心の私自身は少しも快くはなっていないからである。快くなるどころか病状は少しずつ、しかし確実に悪化してきているようでさえある。
私が、特別珍しい教材用の症状をもった者を対象とする、学用患者という扱いを受け、それ故に一銭もかからない仕組みになっているのを、婦長から聞いて知ったのは入院して三カ月経ってからであった。
彼が診に来ても私は自分の体を借り物のように預けておくだけである。彼は癒しもしないで私の体を勝手気儘にいじくっている。
私の症状がちょっと他にない珍しいもので、それを皆が見世物のように見物に来る以上、診察を受け、食事を貰うのは、いわば私の当然の権利と云うこともできる。
それにしても、たとえ治らなくてもいいから、もう少し何人か同僚のいる病気になりたい。皆と同じだということは何と云っても心強い。私の病気がこれといった治療法もなく、どうやら少しずつ進んでいくらしい上に、類い稀な奇病だとしたら私は救われない。自分一人だけが登録した名簿から抹殺され、いつか忘れられるのではたまらない。何とかならないのか。
病室へ戻ると、じき出された夜食もとらずに、私は布団の中へもぐり込んだまま考え続けた。考えれば考えるほど淋しくなった。
皆と一緒に並んでいたのに、何時のまにか私の立っている処だけが崩れ、頸から肩へ、更に胸元へと一歩ずつ底深い低地へ落ち込んでいく不安が私をとらえて放さない。