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猿の抵抗04
日期:2017-02-27 18:01  点击:329
     四
 
 初冬には珍しく晴れた日だった。朝方私は床屋へ行った。長年、両裾を刈り上げた職人刈りのようにしていたのだが、今日は七、三に分けることにした。髪の毛が薄くなったし、妻に以前「職人刈りは品がない」と云われたのを思い出したからだ。
 昼に食膳を下げながら、最近流行の歌謡曲を口ずさんでいると、
「何かいいことでもあるのですか」と佐野君が尋ねた。
「いやいや」私は大袈裟に手を振りながら歌だけは止めなかった。
 午後三時十分前に例によって看護婦が迎えに来た。
 今度は躊躇《ためら》わずにさっさと講堂の中央のベッドに坐った。
 桐田医師は前と同じようにまず私の病歴を述べた。寄席の前口上が始まったわけである。
「それでは患者を診てみましょう」
 桐田医師は教壇を降りてベッドの脇に立った。昨日来た二人の学生が立上って昨日検べた結果を読みあげた。
 私の全身状態について一応の説明をしているらしかった。
 いよいよ近づいた。私は確かめるように左右の手を握りしめた。緊張のためか掌は少し汗ばんでいた。
「アーガイルロバートソン症候は」桐田医師が私の正面に立つ。いよいよテストの始まりだ。懐中電燈をさっと振ってまともに目に当ててくる。
「これはお前に譲ってやる」
 私は心の中で負け惜しみでなくそう思った。眩しくて一番嫌いな検査がその時はさして苦にならなかった。
「次にフィンガーフィンガーテスト」
 その言葉を私ははっきりと聞きとった。二十数人の学生が身を乗り出すようにして私を見守っている。
「よく見ていろ」私は思わず指に力を入れた。
「両手を左右に開いて」桐田医師の声が静まり返った階段教室に響いた。
「はい近づけて」
 私の両手はおもむろに寄って来る。ここまでは猿回しの猿と同じである。
「しかしこれから先はそうはいかないぞ」私は心の中で北叟《ほくそ》笑んだ。
「こんどは目を閉じて同じようにやって下さい」私の心臓は早鐘のように打った。
「うまくやってくれよ」
 両手の先に祈りをこめるように私は指先をベッドの端にすりつけた。一息吸ってから私は、ゆっくりと両手を開く。右掌を外へ少し返した形で七、八センチの間隔をねらってゆっくり進めば当る。
「昨夜あれだけ上手くいったではないか」
 私はもう一度自分に云いきかすと、手を寄せ始めた。少しずつ両手が寄って来た。もうじき当る。どうした事か、もう触れる筈である。誤ったか、失敗か、その瞬間左の指先にかすかな感触が走った。
「触れた」
 確かに左の指先に、右の爪先が当ったのだ。二つの指先が重なり合って盛り上った。もう離れはしない。このままもう決して離しはしない。私はゆっくりと目を開けた。驚きを目一杯に表わした桐田医師の表情が私の眼前にあった。
「どうしたの」私は桐田医師に云ってやりたかった。彼の表情は驚きから困惑に変った。教室は水を打ったように静かだった。
「もう一度」桐田医師の低く鋭い声が飛んだ。
「いくらでもこい、負けはしない」私は一度成功した事でいくらか余裕を持った。
 両手を開いて近づける、ゆっくりと、昨夜のペースを私は忘れていない。触れた、今度は見事に指先が一直線にぶつかったのだ。
「目を閉じている?」
「閉じています」
 私はすかさず答えた。桐田医師は苛立《いらだ》たしげに私を見つめた。これは人の顔ではない。殺人者の顔だと瞬間私は思った。その時、私の目の前は真白いハンカチに覆われた。彼がポケットからハンカチを取り出して私の目を覆ったのだ。
「そんなことをしても同じ事なのだ。優秀なお医者さん、一体どうしてくれるの」
 医学と偉そうにいっても、こんな事で崩れるではないか。これでは診断の根拠などというものはおよそ安心ならない怪しげなものになってしまう。医者と云っても本当のところは少しも解っていないのだ。そう思うといい知れぬ喜びが体を包んだ。
「開いて、近づけて」
 指先が当るのにそう時間はかからなかった。学生達から軽いざわめきが起った。一回目の実習の時のざわめきは私の症状の奇異な素晴らしさに対するざわめきであった。医学の教科書通りであった。しかし今日のは違う。流れるように説明した桐田医師の弁舌に対する疑いのざわめきであった。
「君!! 僕の云う通りやるのだ。右手をずっと下げて、膝の辺りを掴んで、左手は頭の上に」
「えっ」私はきき返した。両手は今迄の左右に開くのとは違って上下へ開いて顔の辺りで指先を合わせようというのだった。
「目を閉じて」桐田医師の声が怒ったように響いた。
「近づけて」命令は容赦なく出された。
 縦と横とでは全く勝手が違っていた。もともと位置感覚の冒されている私から|練れの感《ヽヽヽヽ》をとったら当るわけはなかった。
 指先は小刻みに震えながら近寄った。鼻の真上にきた筈だ。ざわめきが起った。私は思わずハンカチの下で目を開いた。両手の指はすれ違って互いの手首でようやくぶつかって止った。
「もう一度」桐田医師は先程の私の成功を打ち砕くように更に三回、同じ事をやらせた。私の見当識の誤りは、もう誰の目にも明らかだった。
「たまにレジスタンスする患者《クランケ》がいるのも面白い」
 桐田医師の言葉で学生がどっと笑った。私でもレジスタンスという言葉ぐらいは知っている。私はベッドに仰向けになったまま、階段教室の高い天井を見ていた。悪魔のような笑いが、もう一度、四方の天井から私にふりかかってきた。目を閉じて、私はただ笑いが消えるのを待った。
 膝蓋腱反射が調べられた。私はもうどうでもいいと思った。然し桐田医師がハンマーを持って横に立ったのをみた時、この男に急にまた云い知れぬ反発心が湧いた。
 彼が膝を叩いた。私はすかさず足を挙げた。二回やった、同じように挙げた。
「右側」右も同じように叩かれると同時に挙げてやる。
「左っ!!」鋭い声が飛んだ。私は慌てて左膝を上に組み上げる。ハンマーが膝に当る。私は必死に足を挙げる。
「もう一度」再びハンマーが落ちて来る。素早く私の足が挙がる。その時、どっとばかり笑いが起った。
「どうしたことか」私はゆっくり周りをうかがう。ハンマーが膝の上ちょっとのところで止められている。にっこり笑った桐田医師の顔が私に迫ってきた。
「当った?」「どうなの?」「足が挙がったけど?」「治ったのかな」
 小刻みな質問が機関銃のように私を射すえた。私は挙げた足をゆっくりと下げる。
「御苦労さま」その言葉でまた教室がどっと沸いた。
 
 私は部屋へ戻った。桐田医師には勝てない、いや桐田医師というより、私の体を探りつくしている医学という大きなものにはとても勝ちみがなかった。
 数日、私は気が抜けたようにぼんやり過した。
 私の体は自分のものでありながら、私とは別のものに操られている。体の様々な機構は見透かされている。私は壊れた機械をつけて生きているロボットに過ぎなかった。桐田医師は私というロボットをあれこれと楽しげにいじくり廻している。それが彼の趣味であった。
 
 六日目の午後、二人の学生が現われた。今度のグループで学生実習は終りだと云った。
「どうぞ御自由に」
 私は自分の体を診られるのにそんな風に云った。自分のものなのに自分の命令に少しも従わず、他人の云う通りになるような体はどうでもよかった。
 例によって例の通りの診察だった。
「両手を上下に開いて下さい」
 フィンガーフィンガーテストの前に彼等は始めからそう云って私の表情を窺《うかが》った。先週の事件が、後の実習グループに既に伝わっているらしかった。彼等はノートを取り出して私の症状を記載し始めた。私はもうひとつの私と無関係な体に従った。
「トリアスは全部揃っている筈だから」私は寝ながら学生にそんな事を云った。
「今晩は特に練習などしないで下さい」
 学生はそう云うと意味ありげに笑った。私は黙って頷いた。
 すでに十二月に入っていた。私は此処へ入院したのが四月の半ばだったから、早くも七カ月が経っている。一日一日は遅いようで、やはり早かったと思った。
 歩く時、肢がもつれるように感じたのは、もう七、八年も前になろうか、しびれが足先から膝にきて大腿にまで進み、今は両手にまで現われている。やがて、背の低い学生が云ったように、何時か頭にまで毒は廻って来るに違いなかった。十数年の病気を振り返って、僅かずつ、しかし確実に悪くなってきたことは誰よりも私自身が一番よく知っていた。
 夕景が窓の外にあった。師走の町を足早に人々が去っていく、私はそれを見ながら、ぼんやりと彼等が家路の途中で逢う夜の街の賑わいを思った。
 夜食を終えた時、桐田医師が現われた。足早に寄って来ると、きっと私の顔を見据えた。
「明日は変な小細工をしちゃいかん、どうせわかる事なのだから、学生は真剣なのだ、いいね」
 日頃の彼に似合わずきつい語調であった。私は何も答えず目をそらした。病室の三人が、何かあったのかという風に私の様子を窺った。
 暗い布団の中だけが私の自由な住処《すみか》であった。誰の目も此処までは入り込んで来ない。もう何も考えず、出来るだけ頭を空にした方がいいのだと、私は自分に云いきかせた。
 
 佐野君も、石川氏も、金子氏も、私とは遠く離れた生き物であった。四つん這いになっているのだから、人のようではなかった。彼等は群れを作ってゆっくりと進んでいく。皆が連れ立って行くのに、私一人が広漠とした砂地に残されていく。どういうわけか私は追いつけないのだ。時々佐野君が振返ったりするけれど、何も云ってはくれない。走っても、走っても彼等には追いつけない。肢が無性に重かった。突然桐田医師が驚く程近くに現われた。
「お前は此処に残った方がいいよ、お前は学用患者だし、もうどうにもならないんだから」そう云って桐田医師は足早に駆けていった。私は必死に追いかけるのだが、みるみる彼との距離は離れてしまう。
 しめつけられるような胸苦しさで私は目を覚ました。
 桐田医師に叱られて、布団をかぶったまま私は寝入ったのであった。一日毎に靄の深まる外景を覚えている。あれは午後六時に近かった。日がめっきり短くなり、冷気が隅々から忍び込むのがわかっていた。随分早く眠り込んだわけである。その罰に私は今、とんでもない時刻に目覚めてしまった。十一時に十分前であった。皆は寝入りばなの、眠りの一番深いときであった。三人の規則正しい寝息が聞こえる。
「小細工をしてはいかん。どうせわかることなのだから」桐田医師の低く鋭い声が思い出された。
 私は本当に彼にはもう勝てないのだろうか、明日はまた彼の指示通りに動き出さねばならない。彼の号令に従って私の四肢は踊り出す。常人では出来ない芸を見せる。こう打たれればこう反応する。私という玩具は余程、精巧に出来ているらしい。説明書通り、寸分違っていない。私がどんな企みをしても、ロボットを操る桐田医師にはすぐわかってしまう。
 私は両腕を出すと思い出したようにフィンガーフィンガーテストを試みた。きまって右の人差し指が左のそれの前をすれ違っていく。指と指の間は五センチは開いている。何度やっても決ってそれだけ離れるのが、体の中に奇異な疾患が潜んでいることを一層確かなことに思わせた。
 初冬の冷気が指先に小さな震えをもたらせた。手指が冷えきっていた。そこには病が顔を出していた。いくらこのテストを繰り返しても変るものではなかった。訓練などで癒せるものではない。脊髄から小脳へというより上級の神経中枢が冒されているのだった。
 夜にも明るさがあった。たとえ闇夜といっても黒というのではなかった。暗さに眼が慣れるにつれ、私の周囲は次第に拡がっていった。
 夜の|しじま《ヽヽヽ》の中で私に囁く声があった。声が言葉になったとき、ふと私にある思いが浮かんだ。
 桐田医師は明日また私を階段教室へ連れ出し、学生へ私を供覧する。彼の説明には一分の狂いもない。学用患者である私はそれに応《こた》え、学生は今更のように驚き、予定通り事は運ばれる。
 しかしその予定が根本からひっくり返ることがないとは云えない。総てが医師の思う通り進むわけではない。明日のショーの成否の鍵は本当は私が握っているのだ。私がいなくなったらショーは成立しない。
 十一時五分過ぎであった。
 私は突然、寝巻の上にオーバーを着込むと玄関へ急いだ。顔を知った守衛は黙って通してくれた。向かいの薬屋は戸を閉めかけていた。
「先生の処方箋はないのですか」顔馴染みの薬屋の主人は渋い顔をしたが、私は強引に頼み込んで売って貰った。それを買うと市役所から貰った私の小遣は、殆ど失くなってしまった。
 
 外から戻って、体についた冷気が消え去るまで、私はじっと床の中で縮こまっていた。明日こそ私は桐田医師を驚かすことができる。これだけは彼の予定には入っていない。さすがの医学もこれだけは見破ることが出来ないだろう。猿回しは、明日猿が動かないのを知って愕然とするだろう。どうやっても、もう猿は動きはしない。左右からさせようが、上下からさせようが、変りはしない。猿を失った猿回しの云う事なぞ、誰も信じはしない。
「もうあんたの思う通りにはならないよ」私は自分で自分の体を動かなくしてしまう。もう誰も私の体を命令することは出来ない。この一年、願い続けてきたのは、実はこの瞬間であったのかも知れなかった。今私は少しも怖れてはいない。
 私は右手に握りしめていた睡眠薬の小壜を今一度確かめるように頬に触れた。プラスチックの蓋が乾いた音をたてて外れ、床に転がった。
 その一粒一粒を数えながら口へ運んだ。こんな簡単な事になぜ今まで思いつかなかったのか不思議だった。水を口に含むと私はそのすべてを一気に呑み込んだ。
「間違って厭世自殺と思う人がいるかもしれない」瞬間、私はふとそう思ったが、すぐそれは大したことではないと思い返した。
 
 闇の中で視線の両端から細く白い指先が現われた。二つはゆっくりと近づいた。ぶつかると思った。瞬間、指はしめし合わせたように巧みにすりかわった。指は互いに平然とすれ違っていく。ひとつが消えるとまた新しい指先が山なりに現われて来る。二本の指は正確に現われ、正確に消えていった。
 運動は繰り返された。誰一人その運動を見ている人はなかった。ひとつの運動が消えるとその両端でまたひとつ新しい運動が起ってくる。くり返し、くり返して、いつかくたびれて眠りについた時、私は勝つに違いないと思った。

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