四
小さな台風が過ぎたことで残暑が消えた。朝方、氷見子は急に年をとった夢を見た。目醒めるとすぐ自分の鼻と眉に触れてみた。触れたかぎりでは異常はなかった。夢の中の顔は目尻に皺が寄り、髪の毛がごっそりと抜けていた。風の残りが雨戸を叩いていた。氷見子はなお床の中にいて夢の記憶が薄れるのを待った。
周りの部屋の人達はすでに出勤したあとらしく、アパートは静まり返っていた。氷見子は先日の血の検査結果が今日分ることを思い出した。そのことは昨夜眠る前も、眠ってからも思い出していたようであった。
起き上ると十時だった。氷見子はそのまま鏡台の前に坐った。額の生え際に産毛が乱れている。夜の間、乾いた肌に無数の毛穴が見えた。
「新しい発疹はない」そのことを確かめて氷見子は立上り雨戸を開けた。眩しいほどの明るさだったが陽光は間違いなく秋のものだった。
遅い朝食を終え洗濯をし、顔を作って病院へ出かけた。病院へ着いたのは午後二時だった。待合室には買物籠を下げた婦人と少年だけがいた。午後二時頃行けばいつも逢えた木本老人の姿は今日もなかった。老人と逢わなくなって一カ月以上経っていた。
「この頃、木本さんは見えないのですか」診察券を出しながら氷見子は受付の女性に尋ねた。
「あのお爺ちゃん、最近、脚が弱くなってスリッパが脱げたり、ふらつくのでお嫁さんがついてくるのです。その都合でお昼前に見えるんですよ」
「悪くなったのですか」
「お年のせいもあるのでしょうけど、木場からいらっしゃるのですからね」
「木場?」
「深川の、御存じですか」
「ええ」一度車で通りすぎたことがある。江戸時代から木材の集積所として賑わった所である。門口まで立てかけた木の並びは当時の面影があった。
「何故そんな遠くから見えるのですか」
「さあ」事務員は瞬間、戸惑ったように氷見子を見返した。「うちの先生が深川の方の病院に勤めていた時からの患者さんなのです」
それにしてもペニシリンの注射だけにこんな遠くまで来る必要があるだろうか。病院を替え、初めからいろいろ尋ね直されるのが嫌だったのだろうか。氷見子は注射のあと、杖に両手を重ねたまま待合室で坐り続けている木本老人の姿を思った。老人は坐ったまま何かを考えているようであった。だがそれは脚に自信がなかったからのようであった。一度使い果した力が再び充ちてくるまで待っていたのかもしれなかった。
(あれだけ注射をしても病気は治らず、なお進んでいるのだ)
少しずつ、しかし確実に病が進んでくることが無気味だった。婦人と少年が立上って待合室は氷見子だけになった。
「津島さん」
名を呼ばれて氷見子は薄ら寒い思いから覚めた。
「血の検査結果はいかがでしたか」不安と期待をこめて氷見子は尋ねた。
「そう、そうでしたな」医師の声は明るかったが、カルテをめくる仕草は妙にゆっくりしていた。医師の手が止って氷見子は唾を呑んだ。
「大体……前と同じです」
「同じ?」
医師はうなずきピンクの検査用紙を示した。カーン、ガラス板、緒方の各法の横欄には前回と同じく朱色で〈陽性、2〉とある。
「快くなっていないのですか」
「そう急に快くなるものではありませんよ」
「これだけ注射しているのに……」
すでに五十本近い注射を続けて、氷見子の腕のつけ根の部分はいつも重かった。肩口の個所は硬くなり、薄黒く色づいていた。
「この頃はペニシリンに抵抗力をもっているのもあるのです」
「じゃ、もう完全には……」
「焦ってはいけません」
「で……治るのですか」そこを氷見子は知りたかった。だが医師は答えず、横に控えていた看護婦に命じた。
「ペニシリン」
「………」
「とにかく、気長にやることです」
医師と看護婦は呼吸が合い、流れ作業のように素早く注射筒に白い液が満たされた。
(このまま治らないのではないだろうか)
午後、かすかに芽生えた怖れは夜になるとともに、少しずつ、しかし着実に膨らんでいった。
人の群れが雑多に流れていた。灯が点《つ》き始めて街が昼から夜に変ろうとしていた。秋とともに会社の退け時と夕暮れが重なってきていた。氷見子の左右を無数の人がすれ違っていく。前を向いて早足でいく人も、喋りながら腕を組んでいく人もいた。大きなガラス越しに中のボックスが見透せる喫茶店がある。身を乗り出して話しかけている男がいる。それを受けて笑っている女性がいた。話していることは分らないが二人は動いていた。客の間を行くウエイトレスも動いていた。店の角は交差点になっていた。人の波が止り、辺りが人の背で埋まる。氷見子は真中に立っていた。皆が素気なく見えた。声をかけたら逃げだしていくように思えた。信号が赤から青に変り再び人の群れが動き始めた。
(私一人が別に選り分けられた)
「チロル」に出たが店の賑々しさがかえって息苦しかった。いつもより一時間早い十時に氷見子は頭痛がすると云って早退した。妙に気が急《せ》いた。電車を降りると脇も見ず歩いた。何故急ぐのか自分でも分らない。だがとにかく一人にならなければいけないと思った。
十時半に戻ると氷見子は足の裏を見、それからスェーターを脱ぎ、スリップを外した。姿見に前をうつし横から背を見る。透けるように白い肌は夜の光の中で翳りをもち息をひそめていた。どこも異常なところはなかった。肌には赤い班点も硬結《しこり》もなかった。異常がないのに血の検査だけが陽性に出るのが無気味だった。血が体の中で揺れているようであった。陽性を表わす十字が殉教者の刻印のように思えた。
(わたしだけ血の病にとりつかれたのは何故だろうか)
氷見子はパジャマを着、鏡の前の丸椅子に坐ったまま考えた。宇月と知ったことは勿論だが、さかのぼっていくと花島が劇団へ出演の話をもってきたことも、劇団「創造」に参加したことも、Y社がコマーシャルを企画したことも、すべてが原因のようであった。それらは互いにつながり合い関係し合っているようであった。
(でもそれだけだろうか)
まだありそうだった。その先を追っていくと根は別のところに行きつくように思えた。自分がやった程度のふしだらなことは、皆とはいえないが、かなりの人がやっているように思えた。その中から自分だけが選ばれた理由は何であろうか。
間違いなく自分は選ばれたのだ、と氷見子は思った。とてつもない籤《くじ》に当ったようである。それがどういうからくりで自分に訪れたのか分らない。分らないが当ったということだけははっきりしている。そのからくりは誰が操り、誰が命じたのか。自分に当ったのは理にかなっているようで不合理なようでもあった。多くの人の中から自分一人だけ選ばれたことが怖ろしかった。急に孤独が寄せてきた。
(私、一人だけなのは嫌だ)
浮かび上った水鳥のように氷見子は顔を振った。誰でもいい、今はただ同じ血の仲間が欲しかった。