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公孫丑章句上(二 その1)
日期:2017-03-27 09:07  点击:354
公孫丑問曰、夫子加齊之卿相、得行道、焉雖由此霸王不異矣、如此則動心、否乎、孟子曰、否、我四十不動心、 曰、若是則夫子過孟賁遠矣、曰、是不雖、告子先我不動心、曰、不動心有道乎、曰、有、北宮黝之養勇也、不膚撓、不自逃、思以一豪挫於人、若撻之於市朝、不受於褐寛博、亦不受於萬乘之君、視刺萬乘之君、若刺褐夫、無嚴諸侯、惡聲至、必反之、孟施舎之所養勇也、曰、視不勝、猶勝也、量敵而後進、慮勝而後會、是畏三軍者也、舎豈能爲必勝哉、能無懼而已矣、孟施舎似曾子、北宮黝似子夏、夫二子之勇、未知其孰賢、然而孟施舎守約也、昔者曾子謂子襄曰、子好勇乎、吾嘗聞大勇於夫子矣、自反自不縮、雖褐寛博、吾不惴焉、自反而縮、雖千萬人吾往矣、孟施舎守之氣、又不如曾子之守約也、
 
公孫丑が孟子に問うた。
公孫丑「先生が斉の宰相になられて道を行えばこの国を覇者王者となすのも自在だというのは、いまさら怪しむに足りません。ですが、そのような重責を担うと、心が動揺したりはなさらないのですか?」
孟子「いや、余は四十歳になると、心が不動のものとなった。」
公孫丑「うーん、そうすると、先生は孟賁(もうほん。戦国時代の勇士)をはるかに上回っておられますね!」
孟子「何ということはない。告子(こくし。孟子の同時代人の論敵。詳細不明)は余よりも前に『不動心』の境地に至った。」
公孫丑「つまり『不動心』を持つのにも、方法があるというのですか!?」
孟子「ある。二人の勇士の例で譬えようか。まず北宮黝(ほくきゅうよう。よくわからないが、斉の勇士らしい)が心に勇気を養うやり方は、皮膚は張り詰めてたわまず、目はいかなることにもたじろがず、自分の毛一本抜かれただけでも市場で撻(たつ。ムチ打ち刑。ほとんど半殺しにするほど厳しい刑)の刑にさらされたかのような屈辱と受け止める。褐寛博(かつかんぱく。毛布を使ったゆるゆるの上着。住所不定者の着る賤服)の輩にやられても許さないし、戦車一万台を抱える大君主にやられてもやはり許さない。そのような大君主を刺し殺すことなど、褐寛博の輩を刺し殺すぐらいにしか思わない。諸侯を何も畏れず、悪口を受けたならば必ず報復するというようなものだ。次に、孟施舎(もうししゃ。同じく勇士らしい)が心に勇気を養うやり方は、『それがしは勝てない相手にも、勝てるかのように挑みかかる。敵の強さを計算してから進み、勝算がついてから戦うのは、これ敵軍を恐れる者だ。(勇者ではない。)それがしは必ず勝とうとしているのではない。ただ敵を恐れないだけだ』という彼の言葉どおりだ。孔子の弟子で言うならば、孟施舎は曾子に似ているだろうか。そして北宮黝は子夏(しか)に似ているだろうか。この二人の勇敢は、どちらが雌雄ともつけがたい。だが孟施舎の特徴として、「気」をよく保ったことを挙げるべきだ。しかしそれよりも上がある。昔、曾子が弟子の子襄に対して、『君は勇敢を好むようだな。だが余はかつて大勇とは何かを孔先生にうかがったことがある。先生はこう言われた、
自分で内省して正しくないと判断したならば、褐寛博の輩に挑発されても余は進まない。
自分で内省して正しいと判断したならば、相手が千人万人であろうとも、余は進む。
 
とな』と諭した。孟施舎は「気」をよく保って勇敢ではあったが、曾子が心に主義をよく保った勇敢にはかなわない。」

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