(二)
蓮華寺を出たのは五時であつた。学校の日課を終ると、直ぐ其足で出掛けたので、丑松はまだ勤務(つとめ)の儘の服装(みなり)で居る。白墨と塵埃(ほこり)とで汚れた着古しの洋服、書物やら手帳やらの風呂敷包を小脇に抱へて、それに下駄穿(げたばき)、腰弁当。多くの労働者が人中で感ずるやうな羞恥(はぢ)――そんな思を胸に浮べ乍ら、鷹匠(たかしやう)町の下宿の方へ帰つて行つた。町々の軒は秋雨あがりの後の夕日に輝いて、人々が濡れた道路に群つて居た。中には立ちとゞまつて丑松の通るところを眺めるもあり、何かひそひそ立話をして居るのもある。『彼処(あそこ)へ行くのは、ありやあ何だ――むゝ、教員か』と言つたやうな顔付をして、酷(はなはだ)しい軽蔑(けいべつ)の色を顕(あらは)して居るのもあつた。是が自分等の預つて居る生徒の父兄であるかと考へると、浅猿(あさま)しくもあり、腹立たしくもあり、遽(にはか)に不愉快になつてすたすた歩き初めた。
本町の雑誌屋は近頃出来た店。其前には新着の書物を筆太に書いて、人目を引くやうに張出してあつた。かねて新聞の広告で見て、出版の日を楽みにして居た『懴悔録』――肩に猪子(ゐのこ)蓮太郎氏著、定価までも書添へた広告が目につく。立ちどまつて、其人の名を思出してさへ、丑松はもう胸の踊るやうな心地(こゝち)がしたのである。見れば二三の青年が店頭(みせさき)に立つて、何か新しい雑誌でも猟(あさ)つて居るらしい。丑松は色の褪(あ)せたズボンの袖嚢(かくし)の内へ手を突込んで、人知れず銀貨を鳴らして見ながら、幾度か其雑誌屋の前を往つたり来たりした。兎(と)に角(かく)、四十銭あれば本が手に入る。しかし其を今茲(こゝ)で買つて了へば、明日は一文無しで暮さなければならぬ。転宿(やどがへ)の用意もしなければならぬ。斯ういふ思想(かんがへ)に制せられて、一旦は往きかけて見たやうなものゝ、やがて、復(ま)た引返した。ぬつと暖簾(のれん)を潜つて入つて、手に取つて見ると――それはすこし臭気(にほひ)のするやうな、粗悪な洋紙に印刷した、黄色い表紙に『懴悔録』としてある本。貧しい人の手にも触れさせたいといふ趣意から、わざと質素な体裁を択(えら)んだのは、是書(このほん)の性質をよく表して居る。あゝ、多くの青年が読んで知るといふ今の世の中に、飽くことを知らない丑松のやうな年頃で、どうして読まず知らずに居ることが出来よう。智識は一種の饑渇(ひもじさ)である。到頭四十銭を取出して、欲(ほし)いと思ふ其本を買求めた。なけなしの金とはいひ乍(なが)ら、精神(こゝろ)の慾には替へられなかつたのである。
『懴悔録』を抱いて――買つて反つて丑松は気の衰頽(おとろへ)を感じ乍ら、下宿をさして帰つて行くと、不図(ふと)、途中で学校の仲間に出逢(であ)つた。一人は土屋銀之助と言つて、師範校時代からの同窓の友。一人は未(ま)だ極(ご)く年若な、此頃準教員に成つたばかりの男。散歩とは二人のぶら/\やつて来る様子でも知れた。
『瀬川君、大層遅いぢやないか。』
と銀之助は洋杖(ステッキ)を鳴し乍ら近(ちかづ)いた。
正直で、しかも友達思ひの銀之助は、直に丑松の顔色を見て取つた。深く澄んだ目付は以前の快活な色を失つて、言ふに言はれぬ不安の光を帯びて居たのである。『あゝ、必定(きつと)身体(からだ)の具合でも悪いのだらう』と銀之助は心に考へて、丑松から下宿を探しに行つた話を聞いた。
『下宿を? 君はよく下宿を取替へる人だねえ――此頃(こなひだ)あそこの家(うち)へ引越したばかりぢやないか。』
と毒の無い調子で、さも心(しん)から出たやうに笑つた。其時丑松の持つて居る本が目についたので、銀之助は洋杖を小脇に挾んで、見せろといふ言葉と一緒に右の手を差出した。
『是かね。』と丑松は微笑(ほゝゑ)みながら出して見せる。
『むゝ、「懴悔録」か。』と準教員も銀之助の傍に倚添(よりそ)ひながら眺めた。
『相変らず君は猪子先生のものが好きだ。』斯う銀之助は言つて、黄色い本の表紙を眺めたり、一寸内部(なか)を開けて見たりして、『さう/\新聞の広告にもあつたツけ――へえ、斯様(こん)な本かい――斯様な質素な本かい。まあ君のは愛読を通り越して崇拝の方だ。はゝゝゝゝ、よく君の話には猪子先生が出るからねえ。嘸(さぞ)かしまた聞かせられることだらうなあ。』
『馬鹿言ひたまへ。』
と丑松も笑つて其本を受取つた。
夕靄(ゆふもや)の群は低く集つて来て、あそこでも、こゝでも、最早(もう)ちら/\灯(あかり)が点(つ)く。丑松は明後日あたり蓮華寺へ引越すといふ話をして、この友達と別れたが、やがて少許(すこし)行つて振返つて見ると、銀之助は往来の片隅に佇立(たゝず)んだ儘(まゝ)、熟(じつ)と是方(こちら)を見送つて居た。半町ばかり行つて復た振返つて見ると、未だ友達は同じところに佇立んで居るらしい。夕餐(ゆふげ)の煙は町の空を籠めて、悄然(しよんぼり)とした友達の姿も黄昏(たそが)れて見えたのである。