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破戒2-3
日期:2017-05-31 22:27  点击:272
        (三)
 
 不図応接室の戸を叩(たゝ)く音がした。急に二人は口を噤(つぐ)んだ。復(ま)た叩く。『お入り』と声をかけて、校長は倚子(いす)を離れた。郡視学も振返つて、戸を開けに行く校長の後姿を眺め乍ら、誰、町会議員からの使ででもあるか、斯う考へて、入つて来る人の様子を見ると――思ひの外な一人の教師、つゞいてあらはれたのが丑松であつた。校長は思はず郡視学と顔を見合せたのである。
『校長先生、何か御用談中ぢや有ませんか。』
 と丑松は尋ねた。校長は一寸微笑(ほゝゑ)んで、
『いえ、なに、別に用談でも有ません――今二人で御噂をして居たところです。』
『実はこの風間さんですが、是非郡視学さんに御目に懸つて、直接に御願ひしたいことがあるさうですから。』
 斯(か)う言つて、丑松は一緒に来た同僚を薦(すゝ)めるやうにした。
 風間敬之進(けいのしん)は、時世の為に置去にされた、老朽な小学教員の一人。丑松や銀之助などの若手に比べると、阿爺(おやぢ)にしてもよい程の年頃である。黒木綿の紋付羽織、垢染(あかじ)みた着物、粗末な小倉の袴を着けて、兢々(おづ/\)郡視学の前に進んだ。下り坂の人は気の弱いもので、すこし郡視学に冷酷な態度(やうす)が顕(あらは)れると、もう妙に固くなつて思ふことを言ひかねる。
『何ですか、私に用事があると仰(おつしや)るのは。』斯う催促して、郡視学は威丈高(ゐたけだか)になつた。あまり敬之進が躊躇(ぐづ/\)して居るので、終(しまひ)には郡視学も気を苛(いら)つて、時計を出して見たり、靴を鳴らして見たりして、
『奈何(どう)いふ御話ですか。仰つて見て下さらなければ解りませんなあ。』
 もどかしく思ひ乍ら椅子を離れて立上るのであつた。敬之進は猶々(なほ/\)言ひかねるといふ様子で、
『実は――すこし御願ひしたい件(こと)が有まして。』
『ふむ。』
 復(ま)た室の内は寂(しん)として暫時(しばらく)声がなくなつた。首を垂れ乍ら少許(すこし)慄(ふる)へて居る敬之進を見ると、丑松は哀憐(あはれみ)の心を起さずに居られなかつた。郡視学は最早(もう)堪(こら)へかねるといふ風で、
『私は是で多忙(いそが)しい身体です。何か仰ることがあるなら、ずん/\仰つて下さい。』
 丑松は見るに見かねた。
『風間さん、其様(そんな)に遠慮しない方が可(いゝ)ぢや有ませんか。貴方は退職後のことを御相談して頂きたいといふんでしたらう。』斯う言つて、軈(やが)て郡視学の方へ向いて、『私から伺ひます。まあ、風間さんのやうに退職となつた場合には、恩給を受けさして頂く訳に参りませんものでせうか。』
『無論です、そんなことは。』と郡視学は冷かに言放つた。『小学校令の施行規則を出して御覧なさい。』
『そりやあ規則は規則ですけれど。』
『規則に無いことが出来るものですか。身体が衰弱して、職務を執るに堪へないから退職する――其を是方(こちら)で止める権利は有ません。然し、恩給を受けられるといふ人は、満十五ヶ年以上在職したものに限つた話です。風間さんのは十四ヶ年と六ヶ月にしかならない。』
『でも有ませうが、僅か半歳のことで教育者を一人御救ひ下さるとしたら。』
『其様(そん)なことを言つて見た日にやあ際涯(さいげん)が無い。何ぞと言ふと風間さんは直に家の事情、家の事情だ。誰だつて家の事情のないものはありやしません。まあ、恩給のことなぞは絶念(あきら)めて、折角(せつかく)御静養なさるが可(いゝ)でせう。』
 斯う撥付(はねつ)けられては最早(もう)取付く島が無いのであつた。丑松は気の毒さうに敬之進の横顔を熟視(みまも)つて、
『どうです風間さん、貴方からも御願ひして見ては。』
『いえ、只今の御話を伺へば――別に――私から御願する迄も有ません。御言葉に従つて、絶念(あきら)めるより外は無いと思ひます。』
 其時小使が重たさうな風呂敷包を提げて役場から帰つて来た。斯(こ)のしらせを機(しほ)に、郡視学は帽子を執つて、校長に送られて出た。

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