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破戒2-5
日期:2017-05-31 22:28  点击:336
        (五)
 
 丑松は大急ぎで下宿へ帰つた。月給を受取つて来て妙に気強いやうな心地(こゝろもち)にもなつた。昨日は湯にも入らず、煙草も買はず、早く蓮華寺へ、と思ひあせるばかりで、暗い一日(ひとひ)を過したのである。実際、懐中(ふところ)に一文の小使もなくて、笑ふといふ気には誰がならう。悉皆(すつかり)下宿の払ひを済まし、車さへ来れば直に出掛けられるばかりに用意して、さて巻煙草に火を点けた時は、言ふに言はれぬ愉快を感ずるのであつた。
 引越は成るべく目立たないやうに、といふ考へであつた。気掛りなは下宿の主婦(かみさん)の思惑(おもはく)で――まあ、この突然(だしぬけ)な転宿(やどがへ)を何と思つて見て居るだらう。何か彼(あの)放逐された大尽と自分との間には一種の関係があつて、それで面白くなくて引越すとでも思はれたら奈何(どう)しよう。あの愚痴な性質から、根彫葉刻(ねほりはほり)聞咎(きゝとが)めて、何故(なぜ)引越す、斯う聞かれたら何と返事をしたものであらう。そこがそれ、引越さなくても可(いゝ)ものを無理に引越すのであるから、何となく妙に気が咎(とが)める。下手なことを言出せば反つて藪蛇だ。『都合があるから引越す。』理由は其で沢山だ。斯う種々(いろ/\)に考へて、疑つたり恐れたりして見たが、多くの客を相手にする主婦の様子は左様(さう)心配した程でも無い。さうかうする中に、頼んで置いた車も来る。荷物と言へば、本箱、机、柳行李(やなぎがうり)、それに蒲団の包があるだけで、道具は一切一台の車で間に合つた。丑松は洋燈(ランプ)を手に持つて、主婦の声に送られて出た。
 斯うして車の後に随(つ)いて、とぼ/\と二三町も歩いて来たかと思はれる頃、今迄の下宿の方を一寸振返つて見た時は、思はずホツと深い溜息を吐(つ)いた。道路(みち)は悪し、車は遅し、丑松は静かに一生の変遷(うつりかはり)を考へて、自分で自分の運命を憐み乍ら歩いた。寂しいとも、悲しいとも、可笑(をか)しいとも、何ともかとも名の附けやうのない心地(こゝろもち)は烈しく胸の中を往来し始める。追憶(おもひで)の情は身に迫つて、無限の感慨を起させるのであつた。それは十一月の近(ちかづ)いたことを思はせるやうな蕭条(せうでう)とした日で、湿つた秋の空気が薄い烟(けぶり)のやうに町々を引包んで居る。路傍(みちばた)に黄ばんだ柳の葉はぱら/\と地に落ちた。
 途中で紙の旗を押立てた少年の一群(ひとむれ)に出遇つた。音楽隊の物真似、唱歌の勇しさ、笛太鼓も入乱れ、足拍子揃へて面白可笑しく歌つて来るのは何処の家(うち)の子か――あゝ尋常科の生徒だ。見れば其後に随いて、少年と一緒に歌ひ乍ら、人目も関はずやつて来る上機嫌の酔漢(さけよひ)がある。蹣跚(よろ/\)とした足元で直に退職の敬之進と知れた。
『瀬川君、一寸まあ見て呉れ給へ――是が我輩の音楽隊さ。』
 と指(ゆびさ)し乍ら熟柿(じゆくし)臭(くさ)い呼吸(いき)を吹いた。敬之進は何処かで飲んで来たものと見える。指された少年の群は一度にどつと声を揚げて、自分達の可傷(あはれ)な先生を笑つた。
『始めえ――』敬之進は戯れに指揮するやうな調子で言つた。『諸君。まあ聞き給へ。今日(こんにち)迄我輩は諸君の先生だつた。明日(あす)からは最早(もう)諸君の先生ぢや無い。そのかはり、諸君の音楽隊の指揮をしてやる。よしか。解つたかね。あはゝゝゝ。』と笑つたかと思ふと、熱い涙(なんだ)は其顔を伝つて流れ落ちた。
 無邪気な音楽隊は、一斉に歓呼を揚げて、足拍子揃へて通過ぎた。敬之進は何か思出したやうに、熟(じつ)と其少年の群を見送つて居たが、軈(やが)て心付いて歩き初めた。
『まあ、君と一緒に其処迄行かう。』と敬之進は身を慄(ふる)はせ乍ら、『時に瀬川君、まだ斯の通り日も暮れないのに、洋燈(ランプ)を持つて歩くとは奈何(どう)いふ訳だい。』
『私ですか。』と丑松は笑つて、『私は今引越をするところです。』
『あゝ引越か。それで君は何処へ引越すのかね。』
『蓮華寺へ。』
 蓮華寺と聞いて、急に敬之進は無言になつて了つた。暫時(しばらく)の間、二人は互に別々のことを考へ乍ら歩いた。
『あゝ。』と敬之進はまた始めた。『実に瀬川君なぞは羨ましいよ。だつて君、左様(さう)ぢやないか。君なぞは未だ若いんだもの。前途多望とは君等のことだ。何卒(どうか)して我輩も、もう一度君等のやうに若くなつて見たいなあ。あゝ、人間も我輩のやうに老込んで了つては駄目だねえ。』
 

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