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破戒3-5
日期:2017-05-31 22:30  点击:313
        (五)
 
『ねえ、奥様。』と銀之助が言つた。『瀬川君は非常に沈んで居ますねえ。』
『左様(さやう)さ――』と奥様は小首を傾(かし)げる。
『一昨々日(さきをとゝひ)、』と銀之助は丑松の方を見て、『君が斯のお寺へ部屋を捜しに来た日だ――ホラ、僕が散歩してると、丁度本町で君に遭遇(でつくは)したらう。彼時(あのとき)の君の考へ込んで居る様子と言つたら――僕は暫時(しばらく)そこに突立つて、君の後姿を見送つて、何とも言ひ様の無い心地(こゝろもち)がしたねえ。君は猪子先生の「懴悔録」を持つて居た。其時僕は左様(さう)思つた。あゝ、また彼(あ)の先生の書いたものなぞを読んで、神経を痛めなければ可(いゝ)がなあと。彼様(あゝ)いふ本を読むのは、君、可くないよ。』
『何故?』と丑松は身を起した。
『だつて、君、あまり感化を受けるのは可くないからサ。』
『感化を受けたつても可いぢやないか。』
『そりやあ好い感化なら可いけれども、悪い感化だから困る。見たまへ、君の性質が変つて来たのは、彼の先生のものを読み出してからだ。猪子先生は穢多だから、彼様(あゝ)いふ風に考へるのも無理は無い。普通の人間に生れたものが、なにも彼(あ)の真似を為なくてもよからう――彼程(あれほど)極端に悲まなくてもよからう。』
『では、貧民とか労働者とか言ふやうなものに同情を寄せるのは不可(いかん)と言ふのかね。』
『不可と言ふ訳では無いよ。僕だつても、美しい思想だとは思ふさ。しかし、君のやうに、左様(さう)考へ込んで了つても困る。何故君は彼様(あゝ)いふものばかり読むのかね、何故君は沈んでばかり居るのかね――一体、君は今何を考へて居るのかね。』
『僕かい? 別に左様(さう)深く考へても居ないさ。君等の考へるやうな事しか考へて居ないさ。』
『でも何かあるだらう。』
『何かとは?』
『何か原因がなければ、そんなに性質の変る筈が無い。』
『僕は是で変つたかねえ。』
『変つたとも。全然(まるで)師範校時代の瀬川君とは違ふ。彼(あ)の時分は君、ずつと快活な人だつたあね。だから僕は斯う思ふんだ――元来君は欝(ふさ)いでばかり居る人ぢや無い。唯あまり考へ過ぎる。もうすこし他の方面へ心を向けるとか、何とかして、自分の性質を伸ばすやうに為たら奈何(どう)かね。此頃(こなひだ)から僕は言はう/\と思つて居た。実際、君の為に心配して居るんだ。まあ身体の具合でも悪いやうなら、早く医者に診せて、自分で自分を救ふやうに為るが可(いゝ)ぢやないか。』
 暫時(しばらく)座敷の中は寂(しん)として話声が絶えた。丑松は何か思出したことがあると見え、急に喪心した人のやうに成つて、茫然(ばうぜん)として居たが。やがて気が付いて我に帰つた頃は、顔色がすこし蒼ざめて見えた。
『どうしたい、君は。』と銀之助は不思議さうに丑松の顔を眺めて、『はゝゝゝゝ、妙に黙つて了つたねえ。』
『はゝゝゝゝ。はゝゝゝゝ。』
 と丑松は笑ひ紛(まぎらは)して了つた。銀之助も一緒になつて笑つた。奥様とお志保は二人の顔を見比べて、熱心に聞き惚れて居たのである。
『土屋君は「懴悔録」を御読みでしたか。』と文平は談話(はなし)を引取つた。
『否(いゝえ)、未(ま)だ読んで見ません。』斯う銀之助は答へた。
『何か彼の猪子といふ先生の書いたものを御覧でしたか――私は未だ何(なん)にも読んで見ないんですが。』
『左様(さう)ですなあ、僕の読んだのは「労働」といふものと、それから「現代の思潮と下層社会」――あれを瀬川君から借りて見ました。なか/\好いところが有ますよ、力のある深刻な筆で。』
『一体彼の先生は何処を出た人なんですか。』
『たしか高等師範でしたらう。』
『斯ういふ話を聞いたことが有ましたツけ。彼の先生が長野に居た時分、郷里の方でも兎(と)に角(かく)彼様(あゝ)いふ人を穢多の中から出したのは名誉だと言つて、講習に頼んださうです。そこで彼の先生が出掛けて行つた。すると宿屋で断られて、泊る所が無かつたとか。其様(そん)なことが面白くなくて長野を去るやうになつた、なんて――まあ、師範校を辞(や)めてから、彼の先生も勉強したんでせう。妙な人物が新平民なぞの中から飛出したものですなあ。』
『僕も其は不思議に思つてる。』
『彼様(あん)な下等人種の中から、兎に角思想界へ頭を出したなんて、奈何(どう)しても私には其理由が解らない。』
『しかし、彼の先生は肺病だと言ふから、あるひは其病気の為に、彼処(あそこ)まで到(い)つたものかも知れません。』
『へえ、肺病ですか。』
『実際病人は真面目ですからなあ。「死」といふ奴を眼前(めのまへ)に置いて、平素(しよつちゆう)考へて居るんですからなあ。彼の先生の書いたものを見ても、何となく斯う人に迫るやうなところがある。あれが肺病患者の特色です。まあ彼の病気の御蔭で豪(えら)く成つた人はいくらもある。』
『はゝゝゝゝ、土屋君の観察は何処迄も生理的だ。』
『いや、左様(さう)笑つたものでも無い。見たまへ、病気は一種の哲学者だから。』
『して見ると、穢多が彼様(あゝ)いふものを書くんぢや無い、病気が書かせるんだ――斯う成りますね。』
『だつて、君、左様(さう)釈(さと)るより外に考へ様は無いぢやないか――唯新平民が美しい思想を持つとは思はれないぢやないか――はゝゝゝゝ。』
 斯ういふ話を銀之助と文平とが為して居る間、丑松は黙つて、洋燈(ランプ)の火を熟視(みつ)めて居た。自然(おのづ)と外部(そと)に表れる苦悶の情は、頬の色の若々しさに交つて、一層その男らしい容貌(おもばせ)を沈欝(ちんうつ)にして見せたのである。
 茶が出てから、三人は別の話頭(はなし)に移つた。奥様は旅先の住職の噂(うはさ)なぞを始めて、客の心を慰める。子坊主は隣の部屋の柱に凭(もた)れて、独りで舟を漕いで居た。台所の庭の方から、遠く寂しく地響のやうに聞えるは、庄馬鹿が米を舂(つ)く音であらう。夜も更(ふ)けた。

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