(三)
ふと眼を覚まして四辺(そこいら)を見廻した時は、暮色が最早(もう)迫つて来た。向ふの田の中の畦道(あぜみち)を帰つて行く人々も見える。荒くれた男女の農夫は幾群か丑松の側(わき)を通り抜けた。鍬(くは)を担いで行くものもあり、俵を背負つて行くものもあり、中には乳呑児(ちのみご)を抱擁(だきかゝ)へ乍ら足早に家路をさして急ぐのもあつた。秋の一日(ひとひ)の烈しい労働は漸(やうや)く終を告げたのである。
まだ働いて居るものもあつた。敬之進の家族も急いで働いて居た。音作は腰を曲(こゞ)め、足に力を入れ、重い俵(たはら)を家の方へ運んで行く。後には女二人と省吾ばかり残つて、籾(もみ)を振(ふる)つたり、それを俵へ詰めたりして居た。急に『かあさん、かあさん。』と呼ぶ声が起る。見れば省吾の弟、泣いて反返(そりかへ)る児を背負(おぶ)ひ乍ら、一人の妹を連れて母親の方へ駈寄つた。『おゝ、おゝ。』と細君は抱取つて、乳房を出して銜(くは)へさせて、
『進や。父さんは何してるか、お前(めへ)知らねえかや。』
『俺(おら)知んねえよ。』
『あゝ。』と細君は襦袢(じゆばん)の袖口で(まぶち)を押拭ふやうに見えた。『父さんのことを考へると、働く気もなにも失くなつて了ふ――』
『母さん、作ちやんが。』と進は妹の方を指差し乍ら叫んだ。
『あれ。』と細君は振返つて、『誰だい其袋を開けたものは――誰だい母さんに黙つて其袋を開けたものは。』
『作ちやんは取つて食ひやした。』と進の声で。
『真実(ほんと)に仕方が無いぞい――彼娘(あのこ)は。』と細君は怒気を含んで、『其袋を茲(こゝ)へ持つて来な――これ、早く持つて来ねえかよ。』
お作は八歳(やつつ)ばかりの女の児。麻の袋を手に提げた儘、母の権幕を畏(おそ)れて進みかねる。『母さん、お呉(くん)な。』と進も他の子供も強請(せが)み付く。省吾も其と見て、母の傍へ駈寄つた。細君はお作の手から袋を奪取るやうにして、
『どれ、見せな――そいつたツても、まあ、情ない。道理で先刻(さつき)から穏順(おとな)しいと思つた。すこし母さんが見て居ないと、直に斯様(こん)な真似を為る。黙つて取つて食ふやうなものは、泥棒だぞい――盗人(ぬすツと)だぞい――ちよツ、何処へでも勝手に行つて了へ、其様(そん)な根性(こんじやう)の奴は最早(もう)母さんの子ぢやねえから。』
斯う言つて、袋の中に残る冷(つめた)い焼餅(おやき)らしいものを取出して、細君は三人の児に分けて呉れた。
『母さん、俺(おん)にも。』とお作は手を出した。
『何だ、お前は。自分で取つて食つて置き乍ら。』
『母さん、もう一つお呉(くん)な。』と省吾は訴へるやうに、『進には二つ呉れて、私(わし)には一つしか呉ねえだもの。』
『お前は兄さんぢやねえか。』
『進には彼様(あん)な大いのを呉れて。』
『嫌なら、廃(よ)しな、さあ返しな――機嫌克(よ)くして母さんの呉れるものを貰つた例(ためし)はねえ。』
進は一つ頬張り乍ら、軈(やが)て一つの焼餅(おやき)を見せびらかすやうにして、『省吾の馬鹿――やい、やい。』と呼んだ。省吾は忌々敷(いま/\しい)といふ様子。いきなり駈寄つて、弟の頭を握拳(にぎりこぶし)で打つ。弟も利かない気。兄の耳の辺(あたり)を打ち返した。二人の兄弟は怒の為に身を忘れて、互に肩を聳して、丁度野獣(けもの)のやうに格闘(あらそひ)を始める。音作の女房が周章(あわ)てゝ二人を引分けた時は、兄弟ともに大な声を揚げて泣叫ぶのであつた。
『どうしてまあ兄弟喧嘩(きやうだいげんくわ)を為るんだねえ。』と細君は怒つて、『左様(さう)お前達に側(はた)で騒がれると、母さんは最早(もう)気が狂(ちが)ひさうに成る。』
斯の光景(ありさま)を丑松は『藁によ』の蔭に隠れ乍ら見て居た。様子を聞けば聞くほど不幸な家族を憐まずには居られなくなる。急に暮鐘の音に驚かされて、丑松は其処を離れた。
寂しい秋晩の空に響いて、また蓮華寺の鐘の音が起つた。それは多くの農夫の為に、一日の疲労(つかれ)を犒(ねぎら)ふやうにも、楽しい休息(やすみ)を促(うなが)すやうにも聞える。まだ野に残つて働いて居る人々は、いづれも仕事を急ぎ初めた。今は夕靄(ゆふもや)の群が千曲川(ちくまがは)の対岸を籠(こ)めて、高社山(かうしやざん)一帯の山脈も暗く沈んだ。西の空は急に深い焦茶(こげちや)色に変つたかと思ふと、やがて落ちて行く秋の日が最後の反射を田(た)の面(も)に投げた。向ふに見える杜(もり)も、村落も、遠く暮色に包まれて了つたのである。あゝ、何の煩ひも思ひ傷むことも無くて、斯(か)ういふ田園の景色を賞することが出来たなら、どんなにか青春の時代も楽しいものであらう。丑松が胸の中に戦ふ懊悩(あうなう)を感ずれば感ずる程、余計に他界(そと)の自然は活々(いき/\)として、身に染(し)みるやうに思はるゝ。南の空には星一つ顕(あらは)れた。その青々とした美しい姿は、一層夕暮の眺望を森厳(おごそか)にして見せる。丑松は眺め入り乍ら、自分の一生を考へて歩いた。
『しかし、其が奈何(どう)した。』と丑松は豆畠の間の細道へさしかゝつた時、自分で自分を激(はげ)ますやうに言つた。『自分だつて社会の一員(ひとり)だ。自分だつて他(ひと)と同じやうに生きて居る権利があるのだ。』
斯の思想(かんがへ)に力を得て、軈て帰りかけて振返つて見た時は、まだ敬之進の家族が働いて居た。二人の女が冠つた手拭は夕闇に仄白(ほのじろ)く、槌の音は冷々(ひや/″\)とした空気に響いて、『藁を集めろ』などゝいふ声も幽(かすか)に聞える。立つて是方(こちら)を向いたのは省吾か。今は唯動いて居る暗い影かとばかり、人々の顔も姿も判らない程に暮れた。