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破戒6-1
日期:2017-06-03 10:06  点击:264
        (一)
 
 天長節の夜は宿直の当番であつたので、丑松銀之助の二人は学校に残つた。敬之進は急に心細く、名残惜しくなつて、いつまでも此処を去り兼ねる様子。夕飯の後、まだ宿直室に話しこんで、例の愚痴の多い性質から、生先(おひさき)長い二人に笑はれて居るうちに、壁の上の時計は八時打ち、九時打つた。それは翌朝(よくあさ)の霜の烈しさを思はせるやうな晩で、日中とは違つて、めつきり寒かつた。丑松が見廻りの為に出て行つた後、まだ敬之進は火鉢の傍に齧(かじ)り付いて、銀之助を相手に掻口説(かきくど)いて居た。
 軈(やが)て二十分ばかり経つて丑松は帰つて来た。手提洋燈(てさげランプ)を吹消して、急いで火鉢の側(わき)に倚添ひ乍ら、『いや、もう屋外(そと)は寒いの寒くないのツて、手も何も凍(かじか)んで了ふ――今夜のやうに酷烈(きび)しいことは今歳(ことし)になつて始めてだ。どうだ、君、是通りだ。』と丑松は氷のやうに成つた手を出して、銀之助に触つた。『まあ、何といふ冷い手だらう。』斯(か)う言つて、自分の手を引込まして、銀之助は不思議さうに丑松の顔を眺めたのである。
『顔色が悪いねえ、君は――奈何(どう)かしやしないか。』
 と思はず其を口に出した。敬之進も同じやうに不審を打つて、
『我輩も今、其を言はうかと思つて居たところさ。』
 丑松は何か思出したやうに慄へて、話さうか、話すまいか、と暫時(しばらく)躊躇(ちうちよ)する様子にも見えたが、あまり二人が熱心に自分の顔を熟視(みまも)るので、つい/\打明けずには居られなく成つて来た。
『実はねえ――まあ、不思議なことがあるんだ。』
『不思議なとは?』と銀之助も眉をひそめる。
『斯ういふ訳さ――僕が手提洋燈(てさげランプ)を持つて、校舎の外を一廻りして、あの運動場の木馬のところまで行くと、誰か斯う僕を呼ぶやうな声がした。見れば君、誰も居ないぢやないか。はてな、聞いたやうな声だと思つて、考へて見ると、其筈(そのはず)さ――僕の阿爺(おやぢ)の声なんだもの。』
『へえ、妙なことが有れば有るものだ。』と敬之進も不審(いぶか)しさうに、『それで、何ですか、奈何(どん)な風に君を呼びましたか、其声は。』
『「丑松、丑松」とつゞけざまに。』
『フウ、君の名前を?』と敬之進はもう目を円(まる)くして了(しま)つた。
『はゝゝゝゝ。』と銀之助は笑出して、『馬鹿なことを言ひたまへ。瀬川君も余程(よツぽど)奈何(どう)かして居るんだ。』
『いや、確かに呼んだ。』と丑松は熱心に。
『其様(そん)な事があつて堪るものか。何かまた間違へでも為たんだらう。』
『土屋君、君は左様(さう)笑ふけれど、確かに僕の名を呼んだに相違ないよ。風が呻吟(うな)つたでも無ければ、鳥が啼いたでも無い。そんな声を、まさかに僕だつて間違へる筈も無からうぢやないか。どうしても阿爺だ。』
『君、真実(ほんたう)かい――戯語(じようだん)ぢや無いのかい――また欺(かつ)ぐんだらう。』
『土屋君は其だから困る。僕は君これでも真面目(まじめ)なんだよ。確かに僕は斯(こ)の耳で聞いて来た。』
『其耳が宛(あて)に成らないサ。君の父上(おとつ)さんは西乃入(にしのいり)の牧場に居るんだらう。あの烏帽子(ゑぼし)ヶ嶽(だけ)の谷間(たにあひ)に居るんだらう。それ、見給へ。其父上(おとつ)さんが斯様(こん)な隔絶(かけはな)れた処に居る君の名前を呼ぶなんて――馬鹿らしい。』
『だから不思議ぢやないか。』
『不思議? ちよツ、不思議といふのは昔の人のお伽話(とぎばなし)だ。はゝゝゝゝ、智識の進んで来た今日、そんな馬鹿らしいことの有るべき筈が無い。』
『しかし、土屋君。』と敬之進は引取つて、『左様(さう)君のやうに一概に言つたものでもないよ。』
『はゝゝゝゝ、旧弊な人は是だから困る。』と銀之助は嘲(あざけ)るやうに笑つた。
 急に丑松は聞耳を立てた。復(ま)た何か聞きつけたといふ風で、すこし顔色を変へて、言ふに言はれぬ恐怖(おそれ)を表したのである。戯れて居るので無いといふことは、其真面目な眼付を見ても知れた。
『や――復た呼ぶ声がする。何だか斯う窓の外の方で。』と丑松は耳を澄まして、『しかし、あまり不思議だ。一寸、僕は失敬するよ――もう一度行つて見て来るから。』
 ぷいと丑松は駈出して行つた。
 さあ、銀之助は友達のことが案じられる。敬之進はもう心に驚いて了(しま)つて、何かの前兆(しらせ)では有るまいか――第一、父親の呼ぶといふのが不思議だ、と斯う考へつゞけたのである。
『それはさうと、』と敬之進は思付いたやうに、『斯うして吾儕(われ/\)ばかり火鉢にあたつて居るのも気懸(きがゝ)りだ。奈何(どう)でせう、二人で行つて見てやつては。』
『むゝ、左様(さう)しませうか。』と銀之助も火鉢を離れて立上つた。『瀬川君はすこし奈何(どう)かしてるんでせうよ。まあ、僕に言はせると、何か神経の作用なんですねえ――兎(と)に角(かく)、それでは一寸待つて下さい。僕が今、手提洋燈(てさげランプ)を点(つ)けますから。』

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