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破戒6-2
日期:2017-06-03 10:07  点击:245
        (二)
 
 深い思に沈み乍ら、丑松は声のする方へ辿(たど)つて行つた。見れば宿直室の窓を泄(も)れる灯(ひ)が、僅に庭の一部分を照して居るばかり。校舎も、樹木も、形を潜めた。何もかも今は夜の空気に包まれて、沈まり返つて、闇に隠れて居るやうに見える。それは少許(すこし)も風の無い、(しん)とした晩で、寒威(さむさ)は骨に透徹(しみとほ)るかのやう。恐らく山国の気候の烈しさを知らないものは、斯(か)うした信濃の夜を想像することが出来ないであらう。
 父の呼ぶ声が復(ま)た聞えた。急に丑松は立留つて、星明りに周囲(そこいら)を透(すか)して視(み)たが、別に人の影らしいものが目に入るでも無かつた。すべては皆な無言である。犬一つ啼いて通らない斯の寒い夜に、何が音を出して丑松の耳を欺かう。
『丑松、丑松。』
 とまた呼んだ。さあ、丑松は畏(おそ)れず慄(ふる)へずに居られなかつた。心はもう底の底までも掻乱(かきみだ)されて了(しま)つたのである。たしかに其は父の声で――皺枯(しやが)れた中にも威厳のある父の声で、あの深い烏帽子(ゑぼし)ヶ嶽(だけ)の谷間(たにあひ)から、遠く斯(こ)の飯山に居る丑松を呼ぶやうに聞えた。目をあげて見れば、空とても矢張(やはり)地の上と同じやうに、音も無ければ声も無い。風は死に、鳥は隠れ、清(すゞ)しい星の姿ところ/″\。銀河の光は薄い煙のやうに遠く荘厳(おごそか)な天を流れて、深大な感動を人の心に与へる。さすがに幽(かすか)な反射はあつて、仰げば仰ぐほど暗い藍色の海のやうなは、そこに他界を望むやうな心地もせらるゝのであつた。声――あの父の呼ぶ声は、斯の星夜の寒空を伝つて、丑松の耳の底に響いて来るかのやう。子の霊魂(たましひ)を捜すやうな親の声は確かに聞えた。しかし其意味は。斯う思ひ迷つて、丑松はあちこち/\と庭の内を歩いて見た。
 あゝ、何を其様(そんな)に呼ぶのであらう。丑松は一生の戒を思出した。あの父の言葉を思出した。自分の精神の内部(なか)の苦痛(くるしみ)が、子を思ふ親の情からして、自然と父にも通じたのであらうか。飽くまでも素性を隠せ、今日までの親の苦心を忘れるな、といふ意味であらうか。それで彼の牧場の番小屋を出て、自分のことを思ひ乍ら呼ぶ其声が谿谷(たに)から谿谷へ響いて居るのであらうか。それとも、また、自分の心の迷ひであらうか。といろ/\に想像して見て、終(しまひ)には恐怖(おそれ)と疑心(うたがひ)とで夢中になつて、『阿爺(おとつ)さん、阿爺さん。』と自分の方から目的(あてど)もなく呼び返した。
『やあ、君は其処に居たのか。』
 と声を掛けて近(ちかづ)いたのは銀之助。つゞいて敬之進も。二人はしきりに手提洋燈(てさげランプ)をさしつけて、先づ丑松の顔を調べ、身の周囲(まはり)を調べ、それから闇を窺(うかゞ)ふやうにして見て、さて丑松からまた/\父の呼声のしたことを聞取つた。
『土屋君、それ見たまへ。』
 敬之進は寒さと恐怖(おそれ)とで慄へ乍ら言つた。銀之助は笑つて、
『どうしても其様(そん)なことは理窟に合はん。必定(きつと)神経の故(せゐ)だ。一体、瀬川君は妙に猜疑深(うたがひぶか)く成つた。だから其様(そん)な下らないものが耳に聞えるんだ。』
『左様(さう)かなあ、神経の故(せゐ)かなあ。』斯う丑松は反省するやうな調子で言つた。
『だつて君、考へて見たまへ。形の無いところに形が見えたり、声の無いところに声が聞えたりするなんて、それそこが君の猜疑深(うたがひぶか)く成つた証拠さ。声も、形も、其は皆な君が自分の疑心から産出(うみだ)した幻だ。』
『幻?』
『所謂(いはゆる)疑心暗鬼といふ奴だ。耳に聞える幻――といふのも少許(すこし)変な言葉だがね、まあ左様(さう)いふことも言へるとしたら、其が今夜君の聞いたやうな声なんだ。』
『あるひは左様(さう)かも知れない。』
 暫時(しばらく)、三人は無言になつた。天も地も(しん)として、声が無かつた。急に是の星夜の寂寞(せきばく)を破つて、父の呼ぶ声が丑松の耳の底に響いたのである。
『丑松、丑松。』
 と次第に幽(かすか)になつて、啼(な)いて空を渡る夜の鳥のやうに、終(しまひ)には遠く細く消えて聞えなくなつて了つた。
『瀬川君。』と銀之助は手提洋燈をさしつけて、顔色を変へた丑松の様子を不思議さうに眺め乍ら、『どうしたい――君は。』
『今、また阿爺(おやぢ)の声がした。』
『今? 何にも聞えやしなかつたぢやないか。』
『ホウ、左様(さう)かねえ。』
『左様かねえもないもんだ。何(なんに)も声なぞは聞えやしないよ。』と言つて、銀之助は敬之進の方へ向いて、『風間さん、奈何(どう)でした――何か貴方には聞えましたか。』
『いゝえ。』と敬之進も力を入れた。
『ホウラ。風間さんにも聞えなければ、僕にも聞えない。聞いたのは、唯君ばかりだ。神経、神経――どうしても其に相違ない。』
 斯う言つて、軈て銀之助はあちこちと闇を照らして見た。天は今僅かに星の映る鏡、地は今大な暗い影のやう。一つとして声のありさうなものが、手提洋燈の光に入るでもなかつた。『はゝゝゝゝ。』と銀之助は笑ひ出して、『まあ、僕は耳に聞いたつて信じられない。目に見たつて信じられない。手に取つて、触(さは)つて見て、それからでなければ其様(そん)なことは信じられない。いよ/\こりやあ、僕の観察の通りだ。生理的に其様な声が聞えたんだ。はゝゝゝゝ。それはさうと、馬鹿に寒く成つて来たぢやないか。僕は最早(もう)斯うして立つて居られなくなつた――行かう。』

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