(四)
噫(あゝ)。幾度丑松は蓮太郎に自分の素性を話さうと思つたらう。昨夜なぞは遅くまで洋燈(ランプ)の下で其事を考へて、もし先輩と二人ぎりに成るやうな場合があつたなら、彼様(あゝ)言はうか、此様(かう)言はうかと、さま/″\の想像に耽(ふけ)つたのであつた。蓮太郎は今、丑松の傍に居る。さて逢(あ)つて見ると、言出しかねるもので、風景なぞのことばかり話して、肝心の思ふことは未(ま)だ話さなかつた。丑松は既に種々(いろ/\)なことを話して居乍ら、未だ何(なんに)も蓮太郎に話さないやうな気がした。
夕飯の用意を命じて置いて来たからと、蓮太郎に誘はれて、丑松は一緒に根津の旅舎(やどや)の方へ出掛けて行つた。道々丑松は話しかけて、正直なところを言はう/\として見た。それを言つたら、自分の真情が深く先輩の心に通ずるであらう、自分は一層(もつと)先輩に親むことが出来るであらう、斯う考へて、其を言はうとして、言ひ得ないで、時々立止つては溜息を吐くのであつた。秘密――生死(いきしに)にも関はる真実(ほんたう)の秘密――仮令(たとひ)先方(さき)が同じ素性であるとは言ひ乍ら、奈何(どう)して左様(さう)容易(たやす)く告白(うちあ)けることが出来よう。言はうとしては躊躇(ちうちよ)した。躊躇しては自分で自分を責めた。丑松は心の内部(なか)で、懼(おそ)れたり、迷つたり、悶えたりしたのである。
軈(やが)て二人は根津の西町の町はづれへ出た。石地蔵の佇立(たゝず)むあたりは、向町(むかひまち)――所謂(いはゆる)穢多町で、草葺(くさぶき)の屋造(やね)が日あたりの好い傾斜に添ふて不規則に並んで居る。中にも人目を引く城のやうな一郭(ひとかまへ)、白壁高く日に輝くは、例の六左衛門の住家(すみか)と知れた。農業と麻裏製造(あさうらづくり)とは、斯(こ)の部落に住む人々の職業で、彼の小諸の穢多町のやうに、靴、三味線、太鼓、其他獣皮に関したものの製造、または斃馬(へいば)の売買なぞに従事して居るやうな手合は一人も無い。麻裏はどの穢多の家(うち)でも作るので、『中抜き』と言つて、草履の表に用(つか)ふ美しい藁がところ/″\の垣根の傍に乾してあつた。丑松は其を見ると、瀬川の家の昔を思出した。小諸時代を思出した。亡くなつた母も、今の叔母も、克(よ)く其の『中抜き』を編んで居たことを思出した。自分も亦(ま)た少年の頃には、戸隠から来る『かはそ』(草履裏の麻)なぞを玩具(おもちや)にして、父の傍で麻裏造る真似をして遊んだことを思出した。
六左衛門のことは、其時、二人の噂(うはさ)に上つた。蓮太郎はしきりに彼の穢多の性質や行為(おこなひ)やらを問ひ尋ねる。聞かれた丑松とても委敷(くはしく)は無いが、知つて居る丈(だけ)を話したのは斯うであつた。六左衛門の富は彼が一代に作つたもの。今日のやうな俄分限者(にはかぶげんしや)と成つたに就いては、甚(はなは)だ悪しざまに罵るものがある。慾深い上に、虚栄心の強い男で、金の力で成ることなら奈何(どん)な事でもして、何卒(どうか)して『紳士』の尊称を得たいと思つて居る程。恐らく上流社会の華(はな)やかな交際は、彼が見て居る毎日の夢であらう。孔雀の真似を為(す)る鴉(からす)の六左衛門が東京に別荘を置くのも其為である。赤十字社の特別社員に成つたのも其為である。慈善事業に賛成するのも其為である。書画骨董(こつとう)で身の辺(まはり)を飾るのも亦た其為である。彼程(あれほど)学問が無くて、彼程蔵書の多いものも鮮少(すくな)からう、とは斯界隈(このかいわい)での一つ話に成つて居る。
斯ういふことを語り乍ら歩いて行くうちに、二人は六左衛門の家の前へ出て来た。丁度午後の日を真面(まとも)にうけて、宏壮(おほき)な白壁は燃える火のやうに見える。建物幾棟(いくむね)かあつて、長い塀(へい)は其周囲(まはり)を厳(いかめ)しく取繞(とりかこ)んだ。新平民の子らしいのが、七つ八つを頭(かしら)にして、何か『めんこ』の遊びでもして、其塀の外に群り集つて居た。中には頬の紅(あか)い、眼付の愛らしい子もあつて、普通の家の小供と些少(すこし)も相違の無いのがある。中には又、卑しい、愚鈍(おろか)しい、どう見ても日蔭者の子らしいのがある。是れを眺めても、穢多の部落が幾通りかの階級に別れて居ることは知れた。親らしい男は馬を牽(ひ)いて、其小供の群に声を掛けて通り、姉らしい若い女は細帯を巻付けた儘(まゝ)で、いそ/\と二人の側を影のやうに擦抜(すりぬ)けた。斯うして無智と零落とを知らずに居る穢多町の空気を呼吸するといふことは、可傷(いたま)しいとも、恥かしいとも、腹立たしいとも、名のつけやうの無い思をさせる。『吾儕(われ/\)を誰だと思ふ。』と丑松は心に憐んで、一時(いつとき)も早く是処を通過ぎて了(しま)ひたいと考へた。
『先生――行かうぢや有ませんか。』
と丑松はそこに佇立(たゝず)み眺(なが)めて居る蓮太郎を誘ふやうにした。
『見たまへ、まあ、斯の六左衛門の家(うち)を。』と蓮太郎は振返つて、『何処(どこ)から何処まで主人公の性質を好く表してるぢや無いか。つい二三日前、是の家に婚礼が有つたといふ話だが、君は其様(そん)な噂(うはさ)を聞かなかつたかね。』
『婚礼?』と丑松は聞咎(きゝとが)める。
『その婚礼が一通りの婚礼ぢや無い――多分彼様(あゝ)いふのが政治的結婚とでも言ふんだらう。はゝゝゝゝ。政事家の為(す)ることは違つたものさね。』
『先生の仰(おつしや)ることは私に能(よ)く解りません。』
『花嫁は君、斯の家の娘さ。御聟(おむこ)さんは又、代議士の候補者だから面白いぢやないか――』
『ホウ、代議士の候補者? まさか彼の一緒に汽車に乗つて来た男ぢや有ますまい。』
『それさ、その紳士さ。』
『へえ――』と丑松は眼を円くして、『左様(さう)ですかねえ――意外なことが有れば有るものですねえ――』
『全く、僕も意外さ。』といふ蓮太郎の顔は輝いて居たのである。
『しかし何処で先生は其様(そん)なことを御聞きでしたか。』
『まあ、君、宿屋へ行つて話さう。』