(三)
言はう/\と思ひ乍ら、何か斯(か)う引止められるやうな気がして、丑松は言はずに風呂を出た。まだ弁護士は帰らなかつた。夕飯の用意にと、蓮太郎が宿へ命じて置いたは千曲川の鮠(はや)、それは上田から来る途中で買取つたとやらで、魚田楽(ぎよでん)にこしらへさせて、一緒に初冬の河魚の味を試みたいとのこと。仕度するところと見え、摺鉢(すりばち)を鳴らす音は台所の方から聞える。炉辺(ろばた)で鮠の焼ける香は、ぢり/\落ちて燃える魚膏(あぶら)の煙に交つて、斯の座敷までも甘(うま)さうに通つて来た。
蓮太郎は鞄(かばん)の中から持薬を取出した。殊に湯上りの顔色は病気のやうにも見えなかつた。嗅ぐともなしに『ケレオソオト』のにほひを嗅いで見て、軈(やが)て高柳のことを言出す。
『して見ると、瀬川君はあの男と一緒に飯山を御出掛でしたね。』
『どうも不思議だとは思ひましたよ。』と丑松は笑つて、『妙に是方(こちら)を避(よ)けるといふやうな風でしたから。』
『そこがそれ、心に疚(やま)しいところの有る証拠さ。』
『今考へても、彼の外套(ぐわいたう)で身体を包んで、隠れて行くやうな有様が、目に見えるやうです。』
『はゝゝゝゝ。だから、君、悪いことは出来ないものさ。』
と言つて、それから蓮太郎は聞いて来た一伍一什(いちぶしじゆう)を丑松に話した。高柳が秘密に六左衛門の娘を貰つたといふ事実は、妙なところから出たとのこと。すこし調べることがあつて、信州で一番古い秋葉村の穢多町(上田の在にある)、彼処へ蓮太郎が尋ねて行くと、あの六左衛門の親戚で加(しか)も讐敵(かたき)のやうに仲の悪いとかいふ男から斯の話が泄(も)れたとのこと。蓮太郎が弁護士と一緒に、今朝この根津村へ入つた時は、折も折、丁度高柳夫婦が新婚旅行にでも出掛けようとするところ。無論先方(さき)では知るまいが、確に是方(こちら)では後姿を見届けたとのことであつた。
『実に驚くぢやないか。』と蓮太郎は嘆息した。『瀬川君、君はまあ奈何(どう)思ふね、彼の男の心地(こゝろもち)を。これから君が飯山へ帰つて見たまへ――必定(きつと)あの男は平気な顔して結婚の披露を為るだらうから――何処(どこ)か遠方の豪家からでも細君を迎へたやうに細工(こしら)へるから――そりやあもう新平民の娘だとは言ふもんぢやないから。』
斯ういふ話を始めたところへ、下女が膳を持運んで来た。皿の上の鮠(はや)は焼きたての香を放つて、空腹(すきばら)で居る二人の鼻を打つ。銀色の背、樺(かば)と白との腹、その鮮(あたら)しい魚が茶色に焼け焦げて、ところまんだら味噌の能(よ)く付かないのも有つた。いづれも肥え膏(あぶら)づいて、竹の串に突きさゝれてある。流石(さすが)に嗅ぎつけて来たと見え、一匹の小猫、下女の背後(うしろ)に様子を窺(うかゞ)ふのも可笑(をか)しかつた。御給仕には及ばないを言はれて、下女は小猫を連れて出て行く。
『さあ、先生、つけませう。』と丑松は飯櫃(めしびつ)を引取つて、気(いき)の出るやつを盛り始めた。
『どうも済(す)みません。各自(めい/\)勝手にやることにしようぢや有ませんか。まあ、斯(か)うして膳に向つて見ると、あの師範校の食堂を思出さずには居られないねえ。』
と笑つて、蓮太郎は話し/\食つた。丑松も骨離(ほねばなれ)の好い鮠(はや)の肉を取つて、香ばしく焼けた味噌の香を嗅ぎ乍ら話した。
『あゝ。』と蓮太郎は箸持つ手を膝の上に載せて、『どうも当世紳士の豪(えら)いには驚いて了(しま)ふ――金といふものゝ為なら、奈何(どん)なことでも忍ぶのだから。瀬川君、まあ、聞いて呉れたまへ。彼の通り高柳が体裁を飾つて居ても、実は非常に内輪の苦しいといふことは、僕も聞いて居た。借財に借財を重ね、高利貸には責められる、世間への不義理は嵩(かさ)む、到底今年選挙を争ふ見込なぞは立つまいといふことは、聞いて居た。しかし君、いくら窮境に陥つたからと言つて、金を目的(めあて)に結婚する気に成るなんて――あんまり根性が見え透(す)いて浅猿(あさま)しいぢやないか。あるひは、彼男に言はせたら、六左衛門だつて立派な公民だ、其娘を貰ふのに何の不思議が有る、親子の間柄で選挙の時なぞに助けて貰ふのは至当(あたりまへ)ぢやないか――斯う言ふかも知れない。それならそれで可(いゝ)さ。階級を打破して迄(まで)も、気に入つた女を貰ふ位の心意気が有るなら、又面白い。何故そんなら、狐鼠々々(こそ/\)と祝言(しうげん)なぞを為るんだらう。何故そんなら、隠れてやつて来て、また隠れて行くやうな、男らしくない真似を為るんだらう。苟(いやし)くも君、堂々たる代議士の候補者だ。天下の政治を料理するなどと長広舌を振ひ乍ら、其人の生涯を見れば奈何(どう)だらう。誰やらの言草では無いが、全然(まるで)紳士の面を冠つた小人の遣方だ――情ないぢやないか。成程(なるほど)世間には、金に成ることなら何でもやる、買手が有るなら自分の一生でも売る、斯(か)ういふ量見の人はいくらも有るさ。しかし、彼男のは、売つて置いて知らん顔をして居よう、といふのだから酷(はなはだ)しい。まあ、君、僕等の側に立つて考へて見て呉れたまへ――是程(これほど)新平民といふものを侮辱した話は無からう。』
暫時(しばらく)二人は言葉を交さないで食つた。軈てまた蓮太郎は感慨に堪へないと言ふ風で、病気のことなぞはもう忘れて居るかのやうに、
『彼男(あのをとこ)も彼男なら、六左衛門も六左衛門だ。そんなところへ娘を呉れたところで何が面白からう。是(これ)から東京へでも出掛けた時に、自分の聟は政事家だと言つて、吹聴する積りなんだらうが、あまり寝覚の好い話でも無からう。虚栄心にも程が有るさ。ちつたあ娘のことも考へさうなものだがなあ。』
斯う言つて蓮太郎は考深い目付をして、孤(ひと)り思に沈むといふ様子であつた。
聞いて見れば聞いて見るほど、彼の政事家の内幕にも驚かれるが、又、この先輩の同族を思ふ熱情にも驚かれる。丑松は、弱い体躯(からだ)の内に燃える先輩の精神の烈しさを考へて、一種の悲壮な感想(かんじ)を起さずには居られなかつた。実際、蓮太郎の談話(はなし)の中には丑松の心を動かす力が籠つて居たのである。尤(もつと)も、病のある人ででも無ければ、彼様(あゝ)は心を傷めまい、と思はれるやうな節々が時々其言葉に交つて聞えたので。