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破戒10-1
日期:2017-06-03 10:14  点击:269
        (一)
 
 いよ/\苦痛(くるしみ)の重荷を下す時が来た。
 丁度蓮太郎は弁護士と一緒に、上田を指して帰るといふので、丑松も同行の約束した。それは父を傷(きずつ)けた種牛が上田の屠牛場(とぎうば)へ送られる朝のこと。叔父も、丑松も其立会として出掛ける筈になつて居たので。昨夜の丑松の決心――あれを実行するには是上(このうへ)も無い好い機会(しほ)。復(ま)た逢(あ)はれるのは何時のことやら覚束(おぼつか)ない。どうかして叔父や弁護士の聞いて居ないところで――唯先輩と二人ぎりに成つた時に――斯う考へて、丑松は叔父と一緒に出掛ける仕度をしたのであつた。
 上田街道へ出ようとする角のところで、そこに待合せて居る二人と一緒になつた。丑松は叔父を弁護士に紹介し、それから蓮太郎にも紹介した。
『先生、これが私の叔父です。』
 と言はれて、叔父は百姓らしい大な手を擦(も)み乍(なが)ら、
『丑松の奴がいろ/\御世話様に成りますさうで――昨日(さくじつ)はまた御出下すつたさうでしたが、生憎(あいにく)と留守にいたしやして。』
 斯(か)ういふ挨拶をすると、蓮太郎は丁寧に亡(な)くなつた人の弔辞(くやみ)を述べた。
 四人は早く発(た)つた。朝じめりのした街道の土を踏んで、深い霧の中を辿(たど)つて行つた時は、遠近(をちこち)に鶏の鳴き交す声も聞える。其日は春先のやうに温暖(あたゝか)で、路傍の枯草も蘇生(いきかへ)るかと思はれる程。灰色の水蒸気は低く集つて来て、僅かに離れた杜(もり)の梢(こずゑ)も遠く深く烟(けぶ)るやうに見える。四人は後になり前になり、互に言葉を取交し乍ら歩いた。就中(わけても)、弁護士の快活な笑声は朝の空気に響き渡る。思はず足も軽く道も果取(はかど)つたのである。
 東上田へ差懸つた頃、蓮太郎と丑松の二人は少許(すこし)連(つれ)に後(おく)れた。次第に道路(みち)は明くなつて、ところ/″\に青空も望まれるやうに成つた。白い光を帯び乍ら、頭の上を急いだは、朝雲の群。行先(ゆくて)にあたる村落も形を顕(あらは)して、草葺(くさぶき)の屋根からは煙の立ち登る光景(さま)も見えた。霧の眺めは、今、おもしろく晴れて行くのである。
 蓮太郎は苦しい様子も見せなかつた。この石塊(いしころ)の多い歩き難い道を彼様(あゝ)して徒歩(ひろ)つても可(いゝ)のかしらん、と丑松はそれを案じつゞけて、時々蓮太郎を待合せては、一緒に遅く歩くやうに為たが、まあ素人目(しろうとめ)で眺めたところでは格別気息(いき)の切れるでも無いらしい。漸(やうや)く安心して、軈(やが)て話し/\行く連の二人の後姿は、と見ると其時は凡(およ)そ一町程も離れたらう。急に日があたつて、湿(しめ)つた道路も輝き初めた。温和(やはらか)に快暢(こゝろよ)い朝の光は小県(ちひさがた)の野に満ち溢(あふ)れて来た。
 あゝ、告白(うちあ)けるなら、今だ。
 丑松に言はせると、自分は決して一生の戒を破るのでは無い。是(これ)が若(も)し世間の人に話すといふ場合ででも有つたら、それこそ今迄の苦心も水の泡であらう。唯斯人(このひと)だけに告白けるのだ。親兄弟に話すも同じことだ。一向差支が無い。斯う自分で自分に弁解(いひほど)いて見た。丑松も思慮の無い男では無し、彼程(あれほど)堅い父の言葉を忘れて了(しま)つて、好んで死地に陥るやうな、其様(そん)な愚(おろか)な真似を為(す)る積りは無かつたのである。
『隠せ。』
 といふ厳粛な声は、其時、心の底の方で聞えた。急に冷(つめた)い戦慄(みぶるひ)が全身を伝つて流れ下る。さあ、丑松もすこし躊躇(ためら)はずには居られなかつた。『先生、先生』と口の中で呼んで、どう其を切出したものかと悶(もが)いて居ると、何か目に見えない力が背後(うしろ)に在つて、妙に自分の無法を押止めるやうな気がした。
『忘れるな』とまた心の底の方で。

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