(二)
『瀬川君、君は恐しく考へ込んだねえ。』と蓮太郎は丑松の方を振返つて見た。『時に、大分後れましたよ。奈何(どう)ですか、少許(すこし)急がうぢや有ませんか。』
斯う言はれて、丑松も其後に随(つ)いて急いだ。
間も無く二人は連に追付いた。鳥のやうに逃げ易い機会は捕まらなかつた。いづれ未(ま)だ先輩と二人ぎりに成る時は有るであらう、と其を丑松は頼みに思ふのである。
日は次第に高くなつた。空は濃く青く透(す)き澄(とほ)るやうになつた。南の方(かた)に当つて、ちぎれ/\な雲の群も起る。今は温暖(あたゝか)い光の為に蒸(む)されて、野も煙り、岡も呼吸し、踏んで行く街道の土の灰色に乾く臭気(にほひ)も心地(こゝろもち)が好い。浅々と萌初(もえそ)めた麦畠は、両側に連つて、奈何(どんな)に春待つ心の烈しさを思はせたらう。斯(か)うして眺(なが)め/\行く間にも、四人の眼に映る田舎(ゐなか)が四色で有つたのはをかしかつた。弁護士は小作人と地主との争闘(あらそひ)を、蓮太郎は労働者の苦痛(くるしみ)と慰藉(なぐさめ)とを、叔父は『えご』、『山牛蒡(やまごばう)』、『天王草(てんわうぐさ)』、又は『水沢瀉(みづおもだか)』等の雑草に苦しめられる耕作の経験から、収穫(とりいれ)に関係の深い土質の比較、さては上州地方の平野に住む農夫に比べて斯の山の上の人々の粗懶(なげやり)な習慣なぞを――流石(さすが)に三人の話は、生活といふことを離れなかつたが、同じ田舎を心に描いても、丑松のは若々しい思想(かんがへ)から割出して、働くばかりが田舎ではないと言つたやうな風に観察する。斯(か)ういふ思ひ/\の話に身が入つて、四人は疲労(つかれ)を忘れ乍ら上田の町へ入つた。
上田には弁護士の出張所も設けて有る。そこには蓮太郎の細君が根津から帰る夫を待受けて居たので。蓮太郎と弁護士とは、一寸立寄つて用事を済(す)ました上、また屠牛場で一緒に成るといふことにしよう、其種牛の最後をも見よう――斯(か)ういふ約束で別れた。丑松は叔父と連立つて一歩(ひとあし)先へ出掛けた。
屠牛場近く行けば行く程、亡くなつた牧夫のことが烈しく二人の胸に浮んで来た。二人の話は其追懐(おもひで)で持切つた。他人が居なければ遠慮も要(い)らず、今は何を話さうと好自由(すきじいう)である。
『なあ、丑松。』と叔父は歩き乍ら嘆息して、『へえ、もう今日で六日目だぞよ。兄貴が亡くなる、お前(めへ)がやつて来る。葬式(おじやんぼん)を出す、御苦労招びから、礼廻りと、丁度今日で六日目だ。あゝ、明日は最早(もう)初七日だ。日数の早く経(た)つには魂消(たまげ)て了ふ。兄貴に別れたのは、つい未だ昨日のやうにしか思はれねえがなあ。』
丑松は黙つて考へ乍ら随いて行つた。叔父は言葉を継いで、
『真実(ほんたう)に世の中は思ふやうに行かねえものさ。兄貴も、是から楽をしようといふところで、彼様(あん)な災難に罹るなんて。まあ、金を遺(のこ)すぢや無し、名を遺すぢや無し、一生苦労を為つゞけて、其苦労が誰の為かと言へば――畢竟(つまり)、お前や俺の為だ。俺も若え時は、克(よ)く兄貴と喧嘩して、擲(なぐ)られたり、泣かせられたりしたものだが、今となつて考へて見ると、親兄弟程難有(ありがた)いものは無えぞよ。仮令(たとひ)世界中の人が見放しても、親兄弟は捨てねえからなあ。兄貴を忘れちやならねえと言ふのは――其処だはサ。』
暫時(しばらく)二人は無言で歩いた。
『忘れるなよ。』と叔父は復た初めた。『何程(どのくれえ)まあ兄貴もお前の為に心配して居たものだか。ある時、俺に、「丑松も今が一番危え時だ。斯うして山の中で考へたと、世間へ出て見たとは違ふから、そこを俺が思つてやる。なか/\他人の中へ突出されて、内兜(うちかぶと)を見透(みす)かされねえやうに遂行(やりと)げるのは容易ぢやねえ。何卒(どうか)してうまく行(や)つて呉れゝば可(いゝ)が――下手に学問なぞをして、つまらねえ思想(かんがへ)を起さなければ可(いゝ)が――まあ、三十に成つて見ねえ内は、安心が出来ねえ。」と斯ういふから、「なあに、大丈夫――丑松のことなら俺が保証する。」と言つてやつたよ。すると、兄貴は首を振つて、「どうも不可(いかねえ)もので、親の悪いところばかり子に伝はる。丑松も用心深いのは好(いゝ)が、然し又、あんまり用心深過ぎて反つて疑はれるやうな事が出来やすまいか。」としきりに其を言ふ。其時俺が、「左様(さう)心配した日には際限(きり)が無え。」と笑つたことサ。はゝゝゝゝ。』と思出したやうに慾の無い声で笑つて、軈て気を変へて、『しかし、能くまあ、お前も是迄に漕付けて来た。最早大丈夫だ。全くお前には其丈の徳が具(そな)はつて居るのだ。なにしろ用心するに越したことはねえぞよ。奈何(どん)な先生だらうが、同じ身分の人だらうが、決して気は許せねえ――そりやあ、もう、他人と親兄弟とは違ふからなあ。あゝ、兄貴の生きてる時分には、牧場から下つて来る、俺や婆さんの顔を見る、直にお前の噂(うはさ)だつた。もう兄貴は居ねえ。是からは俺と婆さんと二人ぎりで、お前の噂をして楽むんだ。考へて見て呉れよ、俺も子は無しサ――お前より外に便りにするものは無えのだから。』