(一)
『先(ま)づ好かつた。』と叔父は屠牛場の門を出た時、丑松の肩を叩(たゝ)いて言つた。『先づまあ、是(これ)で御関所は通り越した。』
『あゝ、叔父さんは声が高い。』と制するやうにして、丑松は何か思出したやうに、先へ行く蓮太郎と弁護士との後姿を眺(なが)めた。
『声が高い?』叔父は笑ひ乍ら、『ふゝ、俺のやうな皺枯声(しやがれごゑ)が誰に聞えるものかよ。それは左様(さう)と、丑松、へえ最早(もう)是で安心だ。是処(こゝ)まで漕付(こぎつ)ければ、最早大丈夫だ。どのくれえ、まあ、俺も心配したらう。あゝ今夜からは三人で安気(あんき)に寝られる。』
牛肉を満載した車は二人の傍を通過ぎた。枯々な桑畠(くはばたけ)の間には、其車の音がから/\と響き渡つて、随(つ)いて行く犬の叫び声も何となく喜ばしさうに聞える。心の好い叔父は唯訳も無く身を祝つて、顔の薄痘痕(うすあばた)も喜悦(よろこび)の為に埋もれるかのやう。奈何(どう)いふ思想(かんがへ)が来て今の世の若いものゝ胸を騒がせて居るか、其様(そん)なことはとんと叔父には解らなかつた。昔者の叔父は、斯(こ)の天気の好いやうに、唯一族が無事でさへあれば好かつた。軈(やが)て、考深い目付を為て居る丑松を促(うなが)して、昼仕度を為るために急いだのである。
昼食(ちうじき)の後、丑松は叔父と別れて、単独(ひとり)で弁護士の出張所を訪ねた。そこには蓮太郎が細君と一緒に、丑松の来るのを待受けて居たので。尤(もつと)も、一同で楽しい談話(はなし)をするのは三時間しか無かつた。聞いて見ると細君は東京の家へ、蓮太郎と弁護士とは小諸の旅舎(やどや)まで、其日四時三分の汽車で上田を発つといふ。細君は深く夫の身の上を案じるかして、一緒に東京の方へ帰つて呉れと言出したが、蓮太郎は聞入れなかつた。もと/\友人や後進のものを先にして、家のものを後にするのが蓮太郎の主義で、今度信州に踏留まるといふのも、畢竟(つまり)は弁護士の為に尽したいから。其は細君も万々承知。夫の気象として、左様(さう)いふのは無理もない。しかし斯の山の上で、夫の病気が重りでもしたら。斯ういふ心配は深く細君の顔色に表はれる。『奥様(おくさん)、其様(そんな)に御心配無く――猪子君は私が御預りしましたから。』と弁護士が引受顔なので、細君も強ひてとは言へなかつた。
先輩が可懐(なつか)しければ其細君までも可懐しい。斯う思ふ丑松の情は一層深くなつた。始めて汽車の中で出逢(であ)つた時からして、何となく人格の奥床(おくゆか)しい細君とは思つたが、さて打解けて話して見ると、別に御世辞が有るでも無く、左様(さう)かと言つて可厭(いや)に澄まして居るといふ風でも無い――まあ、極(ご)く淡泊(さつぱり)とした、物に拘泥(こうでい)しない気象の女と知れた。風俗(なりふり)なぞには関(かま)はない人で、是(これ)から汽車に乗るといふのに、其程(それほど)身のまはりを取修(とりつくろ)ふでも無い。男の見て居る前で、僅かに髪を撫(な)で付けて、旅の手荷物もそこ/\に取収(とりまと)めた。あの『懴悔録』の中に斯人(このひと)のことが書いてあつたのを、急に丑松は思出して、兎(と)も角(かく)も普通の良い家庭に育つた人が種族の違ふ先輩に嫁(かたづ)く迄(まで)の其二人の歴史を想像して見た。
汽車を待つ二三時間は速(すぐ)に経(た)つた。左右(さうかう)するうちに、停車場(ステーション)さして出掛ける時が来た。流石(さすが)弁護士は忙(せは)しい商売柄、一緒に門を出ようと為(す)るところを客に捕つて、立つて時計を見乍らの訴訟話。蓮太郎は細君を連れて一歩(ひとあし)先へ出掛けた。『あゝ何時復た先生に御目に懸れるやら。』斯う独語(ひとりごと)のやうに言つて、丑松も見送り乍ら随いて行つた。せめてもの心尽し、手荷物の鞄(かばん)は提げさせて貰ふ。其様(そん)なことが丑松の身に取つては、嬉敷(うれしく)も、名残惜敷(なごりをしく)も思はれたので。
初冬の光は町の空に満ちて、三人とも羞明(まぶし)い位であつた。上田の城跡について、人通りのすくない坂道を下りかけた時、丑松は先輩と細君とが斯ういふ談話(はなし)を為るのを聞いた。
『大丈夫だよ、左様(さう)お前のやうに心配しないでも。』と蓮太郎は叱るやうに。
『その大丈夫が大丈夫で無いから困る。』と細君は歩き乍ら嘆息した。『だつて、貴方は少許(ちつと)も身体を関はないんですもの。私が随いて居なければ、どんな無理を成さるか知れないんですもの。それに、斯の山の上の陽気――まあ、私は考へて見たばかりでも怖(おそろ)しい。』
『そりやあ海岸に居るやうな訳にはいかないさ。』と蓮太郎は笑つて、『しかし、今年は暖和(あたゝか)い。信州で斯様(こん)なことは珍しい。斯の位の空気を吸ふのは平気なものだ。御覧な、其証拠には、信州へ来てから風邪一つ引かないぢやないか。』
『でせう。大変に快(よ)く御成(おなん)なすつたでせう。ですから猶々(なほ/\)大切にして下さいと言ふんです。折角(せつかく)快く成りかけて、復(ま)た逆返(ぶりかへ)しでもしたら――』
『ふゝ、左様(さう)大事を取つて居た日にや、事業(しごと)も何も出来やしない。』
『事業? 壮健(たつしや)に成ればいくらでも事業は出来ますわ。あゝ、一緒に東京へ帰つて下されば好いんですのに。』
『解らないねえ。未(ま)だ其様(そん)なことを言つてる。奈何してまあ女といふものは左様(さう)解らないだらう。何程(どれほど)私が市村さんの御世話に成つて居るか、お前だつて其位(それくらゐ)のことは考へさうなものぢやないか。其人の前で、私に帰れなんて――すこし省慮(かんがへ)の有るものなら、彼様(あん)なことの言へた義理ぢや無からう。彼様(あゝ)いふことを言出されると、折角是方(こつち)で思つたことも無に成つて了ふ。それに今度は、すこし自分で研究したいことも有る。今胸に浮んで居る思想(かんがへ)を完成(まと)めて書かうといふには、是非とも自分で斯の山の上を歩いて、田園生活といふものを観察しなくちやならない。それには実にもつて来いといふ機会だ。』と言つて、蓮太郎はすこし気を変へて、『あゝ好い天気だ。全く小春日和(こはるびより)だ。今度の旅行は余程面白からう――まあ、お前も家(うち)へ行つて待つて居て呉れ、信州土産はしつかり持つて帰るから。』
二人は暫時(しばらく)無言で歩いた。丑松は右の手の鞄を左へ持ち変へて、黙つて後から随いて行つた。やがて高い白壁造りの倉庫のあるところへ出て来た。
『あゝ。』と細君は萎(しを)れ乍ら、『何故(なぜ)私が帰つて下さいなんて言出したか、其訳を未だ貴方に話さないんですから。』
『ホウ、何か訳が有るのかい。』と蓮太郎は聞咎める。
『外(ほか)でも無いんですけれど。』と細君は思出したやうに震へて、『どうもねえ、昨夜の夢見が悪くて――斯う恐しく胸騒ぎがして――一晩中私は眠られませんでしたよ。何だか私は貴方のことが心配でならない。だつて、彼様(あん)な夢を見る筈が無いんですもの。だつて、其夢が普通(たゞ)の夢では無いんですもの。』
『つまらないことを言ふなあ。それで一緒に東京へ帰れと言ふのか。はゝゝゝゝ。』と蓮太郎は快活らしく笑つた。
『左様(さう)貴方のやうに言つたものでも有ませんよ。未来(さき)の事を夢に見るといふ話は克(よ)く有ますよ。どうも私は気に成つて仕様が無い。』
『ちよツ、夢なんぞが宛(あて)に成るものぢや無し――』
『しかし――奇異(きたい)なことが有れば有るものだ。まあ、貴方の死んだ夢を見るなんて。』
『へん、御幣舁(ごへいかつ)ぎめ。』