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破戒11-3
日期:2017-06-03 10:17  点击:253
       (三)
 
 何故(なぜ)人の真情は斯う思ふやうに言ひ表すことの出来ないものであらう。其日といふ其日こそは、あの先輩に言ひたい/\と思つて、一度となく二度となく自分で自分を励まして見たが、とう/\言はずに別れて了(しま)つた。どんなに丑松は胸の中に戦ふ深い恐怖(おそれ)と苦痛(くるしみ)とを感じたらう。どんなに丑松は寂しい思を抱(いだ)き乍(なが)ら、もと来た道を根津村の方へと帰つて行つたらう。
 初七日も無事に過ぎた。墓参りもし、法事も済み、わざとの振舞は叔母が手料理の精進(しやうじん)で埒明(らちあ)けて、さて漸(やうや)く疲労(つかれ)が出た頃は、叔父も叔母も安心の胸を撫下した。独り精神(こゝろ)の苦闘(たゝかひ)を続けたのは丑松で、蓮太郎が残して行つた新しい刺激は書いたものを読むにも勝(まさ)る懊悩(あうなう)を与へたのである。時として丑松は、自分の一生のことを考へる積りで、小県(ちひさがた)の傾斜を彷徨(さまよ)つて見た。根津の丘、姫子沢の谷、鳥が啼(な)く田圃側(たんぼわき)なぞに霜枯れた雑草を蹈(ふ)み乍ら、十一月上旬の野辺に満ちた光を眺めて佇立(たゝず)んだ時は、今更のやうに胸を流れる活きた血潮の若々しさを感ずる。確実(たしか)に、自分には力がある。斯(か)う丑松は考へるのであつた。しかし其力は内部(なか)へ/\と閉塞(とぢふさが)つて了つて、衝(つ)いて出て行く道が解らない。丑松はたゞ同じことを同じやうに繰返し乍ら、山の上を歩き廻つた。あゝ、自然は慰めて呉れ、励ましては呉れる。しかし右へ行けとも、左へ行けとも、そこまでは人に教へなかつた。丑松が尋ねるやうな問には、野も、丘も、谷も答へなかつたのである。
 ある日の午後、丑松は二通の手紙を受取つた。二通ともに飯山から。一通は友人の銀之助。例の筆まめ、相変らず長々しく、丁度談話(はなし)をするやうな調子で、さま/″\慰藉(なぐさめ)を書き籠め、さて飯山の消息には、校長の噂(うはさ)やら、文平の悪口やら、『僕も不幸にして郡視学を叔父に持たなかつた』とかなんとか言ひたい放題なことを書き散らし、普通教育者の身を恨(うら)み罵(のゝし)り、到底今日の教育界は心ある青年の踏み留まるべきところでは無いと奮慨してよこした。長野の師範校に居る博物科の講師の周旋で、いよ/\農科大学の助手として行くことに確定したから、いづれ遠からず植物研究に身を委(ゆだ)ねることが出来るであらう――まあ、喜んで呉れ、といふ意味を書いてよこした。
 功名を慕ふ情熱は、斯の友人の手紙を見ると同時に、烈しく丑松の心を刺激した。一体、丑松が師範校へ入学したのは、多くの他の学友と同じやうに、衣食の途(みち)を得る為で――それは小学教師を志願するやうなものは、誰しも似た境遇に居るのであるから――とはいふものゝ、丑松も無論今の位置に満足しては居なかつた。しかし、銀之助のやうな場合は特別として、高等師範へでも行くより外に、小学教師の進んで出る途は無い。さも無ければ、長い/\十年の奉公。其義務年限の間、束縛されて働いて居なければならない。だから丑松も高等師範へ――といふことは卒業の当時考へないでも無い。志願さへすれば最早とつくに選抜されて居たらう。そこがそれ穢多の悲しさには、妙にそちらの方には気が進まなかつたのである。丑松に言はせると、たとへ高等師範を卒業して、中学か師範校かの教員に成つたとしたところで、もしも蓮太郎のやうな目に逢つたら奈何(どう)する。何処(どこ)まで行つても安心が出来ない。それよりは飯山あたりの田舎(ゐなか)に隠れて、じつと辛抱して、義務年限の終りを待たう。其間に勉強して他の方面へ出る下地を作らう。素性が素性なら、友達なんぞに置いて行かれる積りは毛頭無いのだ。斯う嘆息して、丑松は深く銀之助の身の上を羨んだ。
 他の一通は高等四年生総代としてある。それは省吾の書いたもので、手紙の文句も覚束なく、作文の時間に教へた通りをそつくり其儘の見舞状、『根津にて、瀬川先生――風間省吾より』としてあつた。『猶々(なほ/\)』とちひさく隅の方に、『蓮華寺の姉よりも宜敷(よろしく)』としてあつた。
『姉よりも宜敷。』
 と繰返して、丑松は言ふに言はれぬ可懐(なつか)しさを感じた。やがてお志保のことを考へる為に、裏の方へ出掛けた。

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