(三)
川舟は風変りな屋形造りで、窓を附け、舷(ふなべり)から下を白く化粧して赤い二本筋を横に表してある。それに、艫寄(ともより)の半分を板戸で仕切つて、荷積みの為に区別がしてあるので、客の座るところは細長い座敷を見るやう。立てば頭が支へる程。人々はいづれも狭苦しい屋形の下に膝を突合せて乗つた。
やがて水を撃つ棹(さを)の音がした。舟底は砂の上を滑り始めた。今は二挺櫓(ろ)で漕ぎ離れたのである。丑松は隅の方に両足を投出して、独り寂しさうに巻煙草を燻(ふか)し乍(なが)ら、深い/\思に沈んで居た。河の面に映る光線の反射は割合に窓の外を明くして、降りそゝぐ霙の眺めをおもしろく見せる。舷(ふなべり)に触れて囁(つぶや)くやうに動揺する波の音、是方(こちら)で思つたやうに聞える眠たい櫓のひゞき――あゝ静かな水の上だ。荒寥(くわうれう)とした岸の楊柳(やなぎ)もところ/″\。時としては其冬木の姿を影のやうに見て進み、時としては其枯々な枝の下を潜るやうにして通り抜けた。是(これ)から将来(さき)の自分の生涯は畢竟(つまり)奈何(どう)なる。斯う丑松は自分で自分に尋ねることもあつた。誰が其を知らう。窓から首を出して飯山の空を眺めると、重く深く閉塞(とぢふさが)つた雪雲の色はうたゝ孤独な穢多の子の心を傷(いた)ましめる。残酷なやうな、可懐(なつか)しいやうな、名のつけやうの無い心地(こゝろもち)は丑松の胸の中を掻乱(かきみだ)した。今――学校の連中は奈何(どう)して居るだらう。友達の銀之助は奈何して居るだらう。あの不幸な、老朽な敬之進は奈何して居るだらう。蓮華寺の奥様は。お志保は。と不図、省吾から来た手紙の文句なぞを思出して見ると、逢(あ)ひたいと思ふ其人に復(ま)た逢はれるといふ楽みが無いでもない。丑松はあの寺の古壁を思ひやるごとに、空寂なうちにも血の湧くやうな心地(こゝろもち)に帰るのであつた。
『蓮華寺――蓮華寺。』
と水に響く櫓の音も同じやうに調子を合せた。
霙は雪に変つて来た。徒然(つれ/″\)な舟の中は人々の雑談で持切つた。就中(わけても)、高柳と一緒になつた坊主、茶にしたやうな口軽な調子で、柄に無い政事上の取沙汰(とりざた)、酢(す)の菎蒻(こんにやく)のとやり出したので、聞く人は皆な笑ひ憎んだ。斯(こ)の坊主に言はせると、選挙は一種の遊戯で、政事家は皆な俳優に過ぎない、吾儕(われ/\)は唯見物して楽めば好いのだと。斯の言葉を聞いて、また人々が笑へば、そこへ弥次馬が飛出す、其尾に随いて贔顧(ひいき)不贔顧(ぶひいき)の論が始まる。『いよ/\市村も侵入(きりこ)んで来るさうだ。』と一人が言へば、『左様(さう)言ふ君こそ御先棒に使役(つか)はれるんぢや無いか。』と攪返(まぜかへ)すものがある。弁護士の名は幾度か繰返された。其を聞く度に、高柳は不快らしい顔付。ふゝむと鼻の先で笑つて、嘲つたやうに口唇を引歪(ひきゆが)めた。
斯(か)ういふ他(ひと)の談話(はなし)の間にも、女は高柳の側に倚添つて、耳を澄まして、夫の機嫌を取り乍ら聞いて居た。見れば、美しい女の数にも入るべき人で、殊(こと)に華麗(はなやか)な新婚の風俗は多くの人の目を引いた。髪は丸髷(まるまげ)に結ひ、てがらは深紅(しんく)を懸け、桜色の肌理(きめ)細やかに肥えあぶらづいて、愛嬌(あいけう)のある口元を笑ふ度に掩ひかくす様は、まだ世帯の苦労なぞを知らない人である。さすが心の表情は何処(どこ)かに読まれるもので――大きな、ぱつちりとした眼のうちには、何となく不安の色も顕(あらは)れて、熟(じつ)と物を凝視(みつ)めるやうな沈んだところも有つた。どうかすると、女は高柳の耳の側へ口を寄せて、何か人に知れないやうに私語(さゝや)くことも有つた。どうかすると又、丑松の方を盗むやうに見て、『おや、彼の人は――何処かで見掛けたやうな気がする』と斯う其眼で言ふことも有つた。
同族の哀憐(あはれみ)は、斯の美しい穢多の女を見るにつけても、丑松の胸に浮んで来た。人種さへ変りが無くば、あれ程の容姿(きりやう)を持ち、あれ程富有(ゆたか)な家に生れて来たので有るから、無論相当のところへ縁付かれる人だ――彼様(あん)な野心家の餌(ゑば)なぞに成らなくても済(す)む人だ――可愛さうに。斯う考へると同時に、丁度女も自分と同じ秘密を持つて居るかと思ひやると、どうも其処が気懸りでならない。よしんば先方(さき)で自分を知つて居るとしたところで、其が奈何(どう)した、と丑松は自分で自分に尋ねて見た。根津の人、または姫子沢のもの、と思つて居るなら自分に取つて一向恐れるところは無い。恐れるとすれば、其は反(かへ)つて先方(さき)のことだ。斯う自分で答へて見た。第一、自分は四五年以来(このかた)、数へる程しか故郷へ帰らなかつた――卒業した時に一度――それから今度の帰省が足掛三年目――まあ、あの向町なぞは成るべく避(よ)けて通らなかつたし、通つたところで他(ひと)が左様(さう)注意して見る筈も無し、見たところで何処のものだか解らない――大丈夫。斯う用心深く考へても見た。畢竟(つまり)自分が二人の暗い秘密を聞知つたから、それで斯う気が咎(とが)めるのであらう。彼様(あゝ)して私語(さゝや)くのは何でも無いのであらう。避けるやうな素振(そぶり)は唯人目を羞(は)ぢるのであらう。あの目付も。
とはいふものゝ、何となく不安に思ふ其懸念が絶えず心の底にあつた。丑松は高柳夫婦を見ないやうにと勉(つと)めた。