(四)
千曲川の瀬に乗つて下ること五里。尤(もつと)も、其間には、ところ/″\の舟場へも漕ぎ寄せ、洪水のある度に流れるといふ粗造な船橋の下をも潜り抜けなどして、そんなこんなで手間取れた為に、凡(およ)そ三時間は舟旅に費(かゝ)つた。飯山へ着いたのは五時近い頃。其日は舟の都合で、乗客一同上(かみ)の渡しまで。丑松は人々と一緒に其処から岸へ上つた。見れば雪は河原にも、船橋の上にも在つた。丁度小降のなかを暮れて、仄白(ほのじろ)く雪の町々。そこにも、こゝにも、最早ちら/\灯(あかり)が点く。其時蓮華寺で撞(つ)く鐘の音が黄昏(たそがれ)の空に響き渡る――あゝ、庄馬鹿が撞くのだ。相変らず例の鐘楼に上つて冬の一日(ひとひ)の暮れたことを報せるのであらう。と其を聞けば、言ふに言はれぬ可懐(なつか)しさが湧上つて来る。丑松は久し振りで飯山の地を踏むやうな心地(こゝろもち)がした。
半月ばかり見ないうちに、家々は最早(もう)冬籠(ふゆごもり)の用意、軒丈ほどの高さに毎年(まいとし)作りつける粗末な葦簾(よしず)の雪がこひが悉皆(すつかり)出来上つて居た。越後路と同じやうな雪国の光景(ありさま)は丑松の眼前(めのまへ)に展(ひら)けたのである。
新町の通りへ出ると、一筋暗く踏みつけた町中の雪道を用事ありげな男女(をとこをんな)が往つたり来たりして居た。いづれも斯(こ)の夕暮を急ぐ人々ばかり。丑松は右へ避(よ)け、左へ避けして、愛宕(あたご)町をさして急いで行かうとすると、不図(ふと)途中で一人の少年に出逢(であ)つた。近いて見ると、それは省吾で、何か斯う酒の罎(びん)のやうなものを提げて、寒さうに慄(ふる)へ乍(なが)らやつて来た。
『あれ、瀬川先生。』と省吾は嬉しさうに馳寄(かけよ)つて、『まあ、魂消(たまげ)た――それでも先生の早かつたこと。私はまだ/\容易に帰りなさらないかと思ひやしたよ。』
好く言つて呉れた。斯の無邪気な少年の驚喜した顔付を眺(なが)めると、丑松は最早(もう)あのお志保に逢ふやうな心地(こゝろもち)がしたのである。
『君は――お使かね。』
『はあ。』
と省吾は黒ずんだ色の罎を出して見せる。出して見せ乍ら、笑つた。
果して父の為に酒を買つて帰つて行くところであつた。『此頃(こなひだ)は御手紙を難有う。』斯(か)う丑松は礼を述べて、一寸学校の様子を聞いた。自分が留守の間、毎日誰か代つて教へたと尋ねた。それから敬之進のことを尋ねて見た。
『父さん?』と省吾は寂(さみ)しさうに笑つて、『あの、父さんは家に居りやすよ。』
よく/\言ひ様に窮(こま)つたと見えて、斯う答へたが、子供心にも父を憐むといふ情合(じやうあひ)は其顔色に表れるのであつた。見れば省吾は足袋も穿(は)いて居なかつた。斯うして酒の罎を提げて悄然(しよんぼり)として居る少年の様子を眺めると、あの無職業な敬之進が奈何して日を送つて居るかも大凡(おほよそ)想像がつく。
『家へ帰つたらねえ、父さんに宜敷(よろしく)言つて下さい。』
と言はれて、省吾は御辞儀一つして、軈(やが)てぷいと駈出して行つて了つた。丑松も雪の中を急いだ。