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破戒13-1
日期:2017-06-03 10:20  点击:304
        (一)
 
『御頼申(おたのまう)します。』
 蓮華寺の蔵裏(くり)へ来て、斯う言ひ入れた一人の紳士がある。それは丑松が帰つた翌朝(あくるあさ)のこと。階下(した)では最早(もう)疾(とつく)に朝飯(あさはん)を済まして了つたのに、未だ丑松は二階から顔を洗ひに下りて来なかつた。『御頼申します。』と復(ま)た呼ぶので、下女の袈裟治は其を聞きつけて、周章(あわ)てゝ台処の方から飛んで出て来た。
『一寸伺ひますが、』と紳士は至極丁寧な調子で、『瀬川さんの御宿は是方様(こちらさま)でせうか――小学校へ御出(おで)なさる瀬川さんの御宿は。』
『左様(さう)でやすよ。』と下女は襷(たすき)を脱(はづ)し乍ら挨拶した。
『何ですか、御在宿(おいで)で御座(ござい)ますか。』
『はあ、居なさりやす。』
『では、是非御目に懸りたいことが有まして、斯ういふものが伺ひましたと、何卒(どうか)左様(さう)仰(おつしや)つて下さい。』
 と言つて、紳士は下女に名刺を渡す。下女は其を受取つて、『一寸、御待ちなすつて』を言捨て乍ら、二階の部屋へと急いだ。
 丑松は未(ま)だ寝床を離れなかつた。下女が枕頭(まくらもと)へ来て喚起(よびおこ)した時は、客の有るといふことを半分夢中で聞いて、苦しさうに呻吟(うな)つたり、手を延ばしたりした。軈(やが)て寝惚眼(ねぼけまなこ)を擦り/\名刺を眺めると、急に驚いたやうに、むつくり跳(は)ね起きた。
『奈何(どう)したの、斯人(このひと)が。』
『貴方(あんた)を尋ねて来なさりやしたよ。』
 暫時(しばらく)の間、丑松は夢のやうに、手に持つた名刺と下女の顔とを見比べて居た。
『斯人は僕のところへ来たんぢや無いんだらう。』
 と不審を打つて、幾度か小首を傾(かし)げる。
『高柳利三郎?』
 と復(ま)た繰返した。袈裟治は襷を手に持つて、一寸小肥りな身体(からだ)を動(ゆす)つて、早く返事を、と言つたやうな顔付。
『何か間違ひぢやないか。』到頭丑松は斯う言出した。『どうも、斯様(こん)な人が僕のところへ尋ねて来る筈(はず)が無い。』
『だつて、瀬川さんと言つて尋ねて来なすつたもの――小学校へ御出なさる瀬川さんと言つて。』
『妙なことが有ればあるもんだなあ。高柳――高柳利三郎――彼の男が僕のところへ――何の用が有つて来たんだらう。兎(と)も角(かく)も逢つて見るか。それぢやあ、御上りなさいツて、左様(さう)言つて下さい。』
『それはさうと、御飯は奈何(どう)しやせう。』
『御飯?』
『あれ、貴方(あんた)は起きなすつたばかりぢやごはせんか。階下(した)で食べなすつたら? 御味噌汁(おみおつけ)も温めてありやすにサ。』
『廃(よ)さう。今朝は食べたく無い。それよりは客を下の座敷へ通して、一寸待たして置いて下さい――今、直に斯部屋を片付けるから。』
 袈裟治は下りて行つた。急に丑松は部屋の内を眺め廻した。着物を着更へるやら、寝道具を片付けるやら。そこいらに散乱(ちらか)つたものは皆な押入の内へ。床の間に置並べた書籍(ほん)の中には、蓮太郎のものも有る。手捷(てばしこ)く其を机の下へ押込んで見たが、また取出して、押入の内の暗い隅の方へ隠蔽(かく)すやうにした。今は斯(こ)の部屋の内にあの先輩の書いたものは一冊も出て居ない。斯う考へて、すこし安心して、さて顔を洗ふつもりで、急いで楼梯(はしごだん)を下りた。それにしても何の用事があつて、彼様(あん)な男が尋ねて来たらう。途中で一緒に成つてすら言葉も掛けず、見れば成る可く是方(こちら)を避(よ)けようとした人。其人がわざ/\やつて来るとは――丑松は客を自分の部屋へ通さない前から、疑心(うたがひ)と恐怖(おそれ)とで慄(ふる)へたのである。

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