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破戒14-3
日期:2017-06-03 10:23  点击:345
        (三)
 
 東の廊下の突当り、二階へ通ふやうになつて居る階段のところは、あまり生徒もやつて来なかつた。丑松が男女の少年の監督に忙(せは)しい間に、校長と文平の二人は斯(こ)の静かな廊下で話した――並んで灰色の壁に倚凭(よりかゝ)り乍(なが)ら話した。
『一体、君は誰から瀬川君のことを聞いて来たのかね。』と校長は尋ねて見た。
『妙な人から聞いて来ました。』と文平は笑つて、『実に妙な人から――』
『どうも我輩には見当がつかない。』
『尤も、人の名誉にも関はることだから、話だけは為(す)るが、名前を出して呉れては困る、と先方(さき)の人も言ふんです。兎(と)に角(かく)代議士にでも成らうといふ位の人物ですから、其様な無責任なことを言ふ筈(はず)も有ません。』
『代議士にでも?』
『ホラ。』
『ぢやあ、あの新しい細君を連れて帰つて来た人ぢや有ませんか。』
『まあ、そこいらです。』
『して見ると――はゝあ、あの先生が地方廻りでもして居る間に、何処かで其様な話を聞込んで来たものかしら。悪い事は出来ないものさねえ。いつか一度は露顕(あらは)れる時が来るから奇体さ。』と言つて、校長は嘆息して、『しかし、驚ろいたねえ。瀬川君が穢多だなぞとは、夢にも思はなかつた。』
『実際、私も意外でした。』
『見給へ、彼(あ)の容貌(ようばう)を。皮膚といひ、骨格といひ、別に其様な賤民らしいところが有るとも思はれないぢやないか。』
『ですから世間の人が欺(だま)されて居たんでせう。』
『左様ですかねえ。解らないものさねえ。一寸見たところでは、奈何(どう)しても其様な風に受取れないがねえ。』
『容貌ほど人を欺すものは有ませんさ。そんなら、奈何でせう、彼(あ)の性質は。』
『性質だつても君、其様な判断は下せない。』
『では、校長先生、彼の君の言ふこと為(な)すことが貴方の眼には不思議にも映りませんか。克(よ)く注意して、瀬川丑松といふ人を御覧なさい――どうでせう、彼(あ)の物を視る猜疑深(うたがひぶか)い目付なぞは。』
『はゝゝゝゝ、猜疑深いからと言つて、其が穢多の証拠には成らないやね。』
『まあ、聞いて下さい。此頃迄(こなひだまで)瀬川君は鷹匠(たかしやう)町の下宿に居ましたらう。彼(あ)の下宿で穢多の大尽が放逐されましたらう。すると瀬川君は突然(だしぬけ)に蓮華寺へ引越して了ひましたらう――ホラ、をかしいぢや有ませんか。』
『それさ、それを我輩も思ふのさ。』
『猪子蓮太郎との関係だつても左様(さう)でせう。彼様(あん)な病的な思想家ばかり難有(ありがた)く思はないだつて、他にいくらも有さうなものぢや有ませんか。彼様な穢多の書いたものばかり特に大騒ぎしなくても好ささうなものぢや有ませんか。どうも瀬川君が贔顧(ひいき)の仕方は普通の愛読者と少許(すこし)違ふぢや有ませんか。』
『そこだ。』
『未(ま)だ校長先生には御話しませんでしたが、小諸(こもろ)の与良(よら)といふ町には私の叔父が住んで居ます。其町はづれに蛇堀川(じやぼりがは)といふ沙河(すながは)が有まして、橋を渡ると向町になる――そこが所謂(いはゆる)穢多町です。叔父の話によりますと、彼処は全町同じ苗字を名乗つて居るといふことでしたツけ。其苗字が、確か瀬川でしたツけ。』
『成程ねえ。』
『今でも向町の手合は苗字を呼びません。普通に新平民といへば名前を呼捨です。おそらく明治になる前は、苗字なぞは無かつたのでせう。それで、戸籍を作るといふ時になつて、一村挙(こぞ)つて瀬川と成つたんぢや有るまいかと思ふんです。』
『一寸待ちたまへ。瀬川君は小諸の人ぢや無いでせう。小県(ちひさがた)の根津の人でせう。』
『それが宛(あて)になりやしません――兎に角、瀬川とか高橋とかいふ苗字が彼(あ)の仲間に多いといふことは叔父から聞きました。』
『左様言はれて見ると、我輩も思当ることが無いでも無い。しかしねえ、もし其が事実だとすれば、今迄知れずに居る筈も無からうぢやないか。最早(もう)疾(とつく)に知れて居さうなものだ――師範校に居る時代に、最早知れて居さうなものだ。』
『でせう――それそこが瀬川君です。今日(こんにち)まで人の目を暗(くらま)して来た位の智慧(ちゑ)が有るんですもの、余程狡猾(かうくわつ)の人間で無ければ彼(あ)の真似は出来やしません。』
『あゝ。』と校長は嘆息して了つた。『それにしても、よく知れずに居たものさ、どうも瀬川君の様子がをかしい/\と思つたよ――唯、訳も無しに、彼様(あゝ)考へ込む筈(はず)が無いからねえ。』
 急に大鈴の音が響き渡つた。二人は壁を離れて、長い廊下を歩き出した。午後の課業が始まると見え、男女の生徒は上草履鳴らして、廊下の向ふのところを急いで通る。丑松も少年の群に交り乍ら、一寸是方(こちら)を振向いて見て行つた。
『勝野君。』と校長は丑松の姿を見送つて、『成程(なるほど)、君の言つた通りだ。他(ひと)の一生の名誉にも関はることだ。まあ、もうすこし瀬川君の秘密を探つて見ることに為(し)ようぢやないか。』
『しかし、校長先生。』と文平は力を入れて言つた。『是話が彼の代議士の候補者から出たといふことだけは決して他(ひと)に言はないで置いて下さい――さもないと、私が非常に迷惑しますから。』
『無論さ。』

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