(一)
酷烈(はげ)しい、犯し難い社会(よのなか)の威力(ちから)は、次第に、丑松の身に迫つて来るやうに思はれた。学校から帰へつて、蓮華寺の二階へ上つた時も、風呂敷包をそこへ投出(はふりだ)す、羽織袴を脱捨てる、直に丑松は畳の上に倒れて、放肆(ほしいまゝ)な絶望に埋没(うづも)れるの外は無かつた。眠るでも無く、考へるでも無く、丁度無感覚な人のやうに成つて、長いこと身動きも為(せ)ずに居たが、軈(やが)て起直つて部屋の内を眺め廻した。
楽しさうな笑声が、蔵裏(くり)の下座敷の方から、とぎれ/\に聞えた。聞くとも無しに聞耳を立てると、其日も亦(ま)た文平がやつて来て、人々を笑はせて居るらしい。あの邪気(あどけ)ない、制(おさ)へても制へきれないやうな笑声は、と聞くと、省吾は最早(もう)遊びに来て居るものと見える。時々若い女の声も混つた――あゝ、お志保だ。斯(か)う聞き澄まして、丑松は自分の部屋の内を歩いて見た。
『先生。』
と声を掛けて、急に入つて来たのは省吾である。
丁度、階下(した)では茶を入れたので、丑松にも話しに来ないか、と省吾は言付けられて来た。聞いて見ると、奥様やお志保は下座敷に集つて、そこへ庄馬鹿までやつて来て居る。可笑(をか)しい話が始つたので、人々は皆な笑ひ転げて、中にはもう泣いたものが有るとのこと。
『あの、勝野先生も来て居なさりやすよ。』
と省吾は添付(つけた)して言つた。
『左様(さう)? 勝野君も?』と丑松は徴笑み乍ら答へた。遽然(にはかに)、心の底から閃めいたやうに、憎悪(にくしみ)の表情が丑松の顔に上つた。尤(もつと)も直に其は消えて隠れて了つたのである。
『さあ――私(わし)と一緒に早く来なされ。』
『今直に後から行きますよ。』
とは言つたものゝ、実は丑松は行きたくないのであつた。『早く』を言ひ捨てゝ、ぷいと省吾は出て行つて了つた。
楽しさうな笑声が、復(ま)た、起つた。蔵裏の下座敷――それはもう目に見ないでも、斯(か)うして声を聞いたばかりで、人々の光景(ありさま)が手に取るやうに解る。何もかも丑松は想像することが出来た。定めし、奥様は何か心に苦にすることがあつて、其を忘れる為にわざ/\面白可笑(をか)しく取做(とりな)して、それで彼様(あん)な男のやうな声を出して笑ふのであらう。定めし、お志保は部屋を出たり入つたりして、茶の道具を持つて来たり、其を入れて人々に薦(すゝ)めたり、又は奥様の側に倚添(よりそ)ひ乍ら談話(はなし)を聞いて微笑(ほゝゑ)んで居るのであらう。定めし、文平は婦人(をんな)子供(こども)と見て思ひ侮(あなど)つて、自分独りが男ででも有るかのやうに、可厭(いや)に容子(ようす)を売つて居ることであらう。嘸(さぞ)。そればかりでは無い、必定(きつと)また人のことを何とかかんとか――あゝ、あゝ、素性(うまれ)が素性なら、誰が彼様な男なぞの身の上を羨まう。
現世の歓楽を慕ふ心は、今、丑松の胸を衝いてむら/\と湧き上つた。捨てられ、卑(いや)しめられ、爪弾(つまはじ)きせられ、同じ人間の仲間入すら出来ないやうな、つたない同族の運命を考へれば考へるほど、猶々(なほ/\)斯の若い生命(いのち)が惜まるゝ。
『何故、先生は来なさらないですか。』
斯(か)う言ひ乍ら、軈(やが)て復(ま)た迎へにやつて来たのは省吾である。
あまり邪気(あどけ)ないことを言つて督促(せきた)てるので、丑松は斯の少年を慫慂(そゝの)かして、いつそ本堂の方へ連れて行かうと考へた。部屋を出て、楼梯(はしごだん)を下りると、蔵裏から本堂へ通ふ廊下は二つに別れる。裏庭に近い方を行けば、是非とも下座敷の側を通らなければならない。其処には文平が話しこんで居るのだ。丑松は表側の廊下を通ることにした。