(三)
夕飯の後、蓮華寺では説教の準備(したく)を為るので多忙(いそが)しかつた。昔からの習慣(ならはし)として、定紋つけた大提灯(おほぢやうちん)がいくつとなく取出された。寺内の若僧、庄馬鹿、子坊主まで聚(よ)つて会(たか)つて、火を点(とも)して、其を本堂へと持運ぶ。三人はその為に長い廊下を往つたり来たりした。
説教聞きにとこゝろざす人々は次第に本堂へ集つて来た。是寺に附く檀家(だんか)のものは言ふも更(さら)なり、其と聞伝へたかぎりは誘ひ合せて詰掛ける。既にもう一生の行程(つとめ)を終つた爺さん婆さんの群ばかりで無く、随分種々(さま/″\)の繁忙(せは)しい職業に従ふ人々まで、其を聴かうとして熱心に集ふのを見ても、いかに斯の飯山の町が昔風の宗教と信仰との土地であるかを想像させる。聖経(おきやう)の中にある有名な文句、比喩(たとへ)なぞが、普通の人の会話に交るのは珍しくも無い。娘の連はいづれも美しい珠数の袋を懐にして、蓮華寺へと先を争ふのであつた。
それは丑松の身に取つて、最も楽しい、又最も哀しい寺住(てらずみ)の一夜であつた。どんなに丑松は胸を踊らせて、お志保と一緒に説教聞く歓楽(たのしみ)を想像したらう。あゝ、斯ういふ晩にあたつて、自分が穢多であるといふことを考へたほど、切ない思を為たためしは無い。奥様を始め、お志保、省吾なぞは既に本堂へ上つて、北の間の隅のところに集つて居た。見れば中の間から南の間へかけて、男女(をとこをんな)の信徒、あそこに一団(ひとかたまり)、こゝにも一団、思ひ/\に挨拶したり話したりする声は、忍んではするものゝ、何となく賑に面白く聞える。庄馬鹿が、自慢の羽織を折目正しく着飾つて、是見(これみ)よがしに人々のなかを分けて歩くのも、をかしかつた。其取澄ました様子を見て、奥様も笑へば、お志保も笑つた。丁度丑松の座つたところは、永代読経として寄附の金高と姓名とを張出してある古壁の側、お志保も近くて、髪の香が心地よくかをりかゝる。提灯の影は花やかに本堂の夜の空気を照らして、一層その横顔を若々しくして見せた。何といふ親しげな有様だらう、あの省吾を背後(うしろ)から抱いて、すこし微笑(ほゝゑ)んで居る姉らしい姿は。斯う考へて、丑松はお志保の方を熟視(みまも)る度(たび)に、言ふに言はれぬ楽しさを覚えるのであつた。
説教の始まるには未だ少許(すこし)間が有つた。其時文平もやつて来て、先づ奥様に挨拶し、お志保に挨拶し、省吾に挨拶し、それから丑松に挨拶した。あゝ、嫌な奴が来た、と心に思ふばかりでも、丑松の空想は忽ち掻乱(かきみだ)されて、慄(ぞつ)とするやうな現実の世界へ帰るさへあるに、加之(おまけに)、文平が忸々敷(なれ/\し)い調子で奥様に話しかけたり、お志保や省吾を笑はせたりするのを見ると、丑松はもう腹立たしく成る。斯うした女子供のなかで談話(はなし)をさせると、実に文平は調子づいて来る男で、一寸したことをいかにも尤(もつと)もらしく言ひこなして聞かせる。それに、この男の巧者なことには、妙に人懐(ひとなつ)こい、女の心を(ひきつ)けるやうなところが有つて、正味自分の価値(ねうち)よりは其を二倍にも三倍にもして見せた。万事深く蔵(つゝ)んで居るやうな丑松に比べると、親切は反(かへ)つて文平の方にあるかと思はせる位。丑松は別に誰の機嫌を取るでも無かつた――いや、省吾の方には優(やさ)しくしても、お志保に対する素振を見ると寧(いつ)そ冷淡(つれない)としか受取れなかつたのである。
『瀬川君、奈何(どう)です、今日の長野新聞は。』
と文平は低声(こごゑ)で誘(かま)をかけるやうに言出した。
『長野新聞?』と丑松は考深い目付をして、『今日は未だ読んで見ません。』
『そいつは不思議だ――君が読まないといふのは不思議だ。』
『何故(なぜ)?』
『だつて、君のやうに猪子先生を崇拝して居ながら、あの演説の筆記を読まないといふのは不思議だからサ。まあ、是非読んで見たまへ。それに、あの新聞の評が面白い。猪子先生のことを、「新平民中の獅子」だなんて――巧いことを言ふ記者が居るぢやあないか。』
斯う口では言ふものゝ、文平の腹の中では何を考へて居るか、と丑松は深く先方(さき)の様子を疑つた。お志保はまた熱心に耳を傾けて、二人の顔を見比べて居たのである。
『猪子先生の議論は兎(と)に角(かく)、あの意気には感服するよ。』と文平は言葉を継いで、『あの演説の筆記を見たら、猪子先生の書いたものを読んで見たくなつた。まあ君は審(くは)しいと思ふから、其で聞くんだが、あの先生の著述では何が一番傑作と言はれるのかね。』
『どうも僕には解らないねえ。』斯う丑松は答へた。
『いや、戯語(じようだん)ぢや無いよ――実際、君、僕は穢多といふものに興味を持つて来た。あの先生のやうな人物が出るんだから、確に研究して見る価値(ねうち)は有るに相違ない。まあ、君だつても、其で「懴悔録」なぞを読む気に成つたんだらう。』と文平は嘲(あざけ)るやうな語気で言つた。
丑松は笑つて答へなかつた。流石(さすが)にお志保の居る側で、穢多といふ言葉が繰返された時は、丑松はもう顔色を変へて、自分で自分を制へることが出来なかつたのである。怒気(いかり)と畏怖(おそれ)とはかはる/″\丑松の口唇(くちびる)に浮んだ。文平は又、鋭い目付をして、其微細な表情までも見泄(みも)らすまいとする。『御気の毒だが――左様(さう)君のやうに隠したつても無駄だよ』と斯う文平の目が言ふやうにも見えた。
『瀬川君、何か君のところには彼の先生のものが有るだらう。何でも好いから僕に一冊貸して呉れ給へな。』
『無いよ――何にも僕のところには無いよ。』
『無い? 無いツてことがあるものか。君の許(ところ)に無いツてことがあるものか。なにも左様(さう)隠さないで、一冊位貸して呉れたつて好ささうなものぢやないか。』
『いや、僕は隠しやしない。無いから無いと言ふんさ。』
遽然(にはかに)、蓮華寺の住職が説教の座へ上つたので、二人はそれぎり口を噤んで了つた。人々はいづれも座(すわ)り直したり、容(かたち)を改めたりした。