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破戒16-4
日期:2017-06-03 10:28  点击:286
        (四)
 
 雪は往来にも、屋根の上にもあつた。『みの帽子』を冠り、蒲(がま)の脛穿(はゞき)を着け、爪掛(つまかけ)を掛けた多くの労働者、または毛布を頭から冠つて深く身を包んで居る旅人の群――其様(そん)な手合が眼前(めのまへ)を往つたり来たりする。人や馬の曳く雪橇(ゆきぞり)は幾台(いくつ)か丑松の側を通り過ぎた。
 長い廻廊のやうな雪除(ゆきよけ)の『がんぎ』(軒廂(のきびさし))も最早(もう)役に立つやうに成つた。往来の真中に堆高(うづだか)く掻集めた白い小山の連接(つゞき)を見ると、今に家々の軒丈よりも高く降り積つて、これが飯山名物の『雪山』と唄(うた)はれるかと、冬期の生活(なりはひ)の苦痛(くるしみ)を今更のやうに堪へがたく思出させる。空の模様はまた雪にでも成るか。薄い日のひかりを眺めたばかりでも、丑松は歩き乍ら慄(ふる)へたのである。
 上町(かみまち)の古本屋には嘗(かつ)て雑誌の古を引取つて貰つた縁故もあつた。丁度其店頭(みせさき)に客の居なかつたのを幸(さいはひ)、ついと丑松は帽子を脱いで入つて、例の風呂敷包を何気なく取出した。『すこしばかり書籍(ほん)を持つて来ました――奈何(どう)でせう、是(これ)を引取つて頂きたいのですが。』と其を言へば、亭主は直に丑松の顔色を読んで、商人(あきんど)らしく笑つて、軈(やが)て膝を進め乍ら風呂敷包を手前へ引寄せた。
『ナニ、幾許(いくら)でも好いんですから――』
 と丑松は添加(つけた)して言つた。
 亭主は風呂敷包を解(ほど)いて、一冊々々書物の表紙を調べた揚句、それを二通りに分けて見た。語学の本は本で一通り。兎も角も其丈(それだけ)は丁寧に内部(なかみ)を開けて見て、それから蓮太郎の著したものは無造作に一方へ積重ねた。
『何程(いかほど)ばかりで是は御譲りに成る御積りなんですか。』と亭主は丑松の顔を眺めて、さも持余したやうに笑つた。
『まあ、貴方の方で思つたところを附けて見て下さい。』
『どうも是節は不景気でして、一向に斯(か)ういふものが捌(は)けやせん。御引取り申しても好うごはすが、しかし金高があまり些少(いさゝか)で。実は申上げるにしやしても、是方(こちら)の英語の方だけの御直段(おねだん)で、新刊物の方はほんの御愛嬌(ごあいけう)――』と言つて、亭主は考へて、『こりや御持帰りに成りやした方が御為かも知れやせん。』
『折角(せつかく)持つて来たものです――まあ、左様言はずに、引取れるものなら引取つて下さい。』
『あまり些少(いさゝか)ですが、好うごはすか。そんなら、別々に申上げやせうか。それとも籠(こ)めて申上げやせうか。』
『籠めて言つて見て下さい。』
『奈何(いかゞ)でせう、精一杯なところを申上げて、五十五銭。へゝゝゝゝ。それで宜(よろ)しかつたら御引取り申して置きやす。』
『五十五銭?』
 と丑松は寂しさうに笑つた。
 もとより何程(いくら)でも好いから引取つて貰ふ気。直に話は纏(まとま)つた。あゝ書物ばかりは売るもので無いと、予(かね)て丑松も思はないでは無いが、然しこゝへ持つて来たのは特別の事情がある。やがて自分の宿処と姓名とを先方(さき)の帳面へ認(したゝ)めてやつて、五十五銭を受取つた。念の為、蓮太郎の著したものだけを開けて見て、消して持つて来た瀬川といふ認印(みとめ)のところを確めた。中に一冊、忘れて消して無いのがあつた。『あ――ちよつと、筆を貸して呉れませんか。』斯う言つて、借りて、赤々と鮮明(あざやか)に読まれる自分の認印の上へ、右からも左からも墨黒々と引いた。
『斯うして置きさへすれば大丈夫。』――丑松の積りは斯うであつた。彼の心は暗かつたのである。思ひ迷ふばかりで、実は奈何(どう)していゝか解らなかつたのである。古本屋を出て、自分の為(し)たことを考へ乍ら歩いた時は、もう哭(な)きたい程の思に帰つた。
『先生、先生――許して下さい。』
 と幾度か口の中で繰返した。其時、あの高柳に蓮太郎と自分とは何の関係も無いと言つたことを思出した。鋭い良心の詰責(とがめ)は、身を衛(まも)る余儀なさの弁解(いひわけ)と闘つて、胸には刺されるやうな深い/\悲痛(いたみ)を感ずる。丑松は羞(は)ぢたり、畏(おそ)れたりしながら、何処へ行くといふ目的(めあて)も無しに歩いた。

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