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破戒18-3
日期:2017-06-03 10:35  点击:278
        (三)
 
 校長は郡視学と二人で応接室に居た。銀之助が戸を開けて入つた時は、二人差向ひに椅子に腰懸けて、何か密議を凝(こら)して居るところであつた。
『おゝ、土屋君か。』と校長は身を起して、そこに在る椅子を銀之助の方へ押薦(おしすゝ)めた。『他(ほか)の事で君を呼んだのでは無いが、実は近頃世間に妙な風評が立つて――定めし其はもう君も御承知のことだらうけれど――彼様(あゝ)して町の人が左(と)や右(かく)言ふものを、黙つて見ても居られないし、第一斯(か)ういふことが余り世間へ伝播(ひろが)ると、終(しまひ)には奈何(どん)な結果を来すかも知れない。其に就いて、茲(こゝ)に居られる郡視学さんも非常に御心配なすつて、態々(わざ/\)斯(こ)の雪に尋ねて来て下すつたんです。兎(と)に角(かく)、君は瀬川君と師範校時代から御一緒ではあり、日頃親しく往来(ゆきゝ)もして居られるやうだから、君に聞いたら是事(このこと)は一番好く解るだらう、斯う思ひましてね。』
『いえ、私だつて其様(そん)なことは解りません。』と銀之助は笑ひ乍ら答へた。『何とでも言はせて置いたら好いでせう。其様な世間で言ふやうなことを、一々気にして居たら際限(きり)が有ますまい。』
『しかし、左様いふものでは無いよ。』と校長は一寸郡視学の方を向いて見て、軈(やが)て銀之助の顔を眺め乍ら、『君等は未だ若いから、其程世間といふものに重きを置かないんだ。幼稚なやうに見えて、馬鹿にならないのは、世間さ。』
『そんなら町の人が噂(うはさ)するからと言つて、根も葉も無いやうなことを取上げるんですか。』
『それ、それだから、君等は困る。無論我輩だつて其様なことを信じないさ。しかし、君、考へて見給へ。万更(まんざら)火の気の無いところに煙の揚る筈(はず)も無からうぢやないか。いづれ是には何か疑はれるやうな理由が有つたんでせう――土屋君、まあ、君は奈何(どう)思ひます。』
『奈何しても私には左様思はれません。』
『左様言へば、其迄だが、何かそれでも思ひ当る事が有さうなものだねえ。』と言つて校長は一段声を低くして、『一体瀬川君は近頃非常に考へ込んで居られるやうだが、何が原因(もと)で彼様(あゝ)憂欝に成つたんでせう。以前は克(よ)く吾輩の家(うち)へもやつて来て呉れたツけが、此節はもう薩張(さつぱり)寄付かない。まあ吾儕(われ/\)と一緒に成つて、談(はな)したり笑つたりするやうだと、御互ひに事情も能(よ)く解るんだけれど、彼様(あゝ)して独りで考へてばかり居られるもんだから――ホラ、訳を知らないものから見ると、何かそこには後暗い事でも有るやうに、つい疑はなくても可い事まで疑ふやうに成るんだらうと思ふのサ。』
『いえ。』と銀之助は校長の言葉を遮(さへぎ)つて、『実は――其には他に深い原因が有るんです。』
『他に?』
『瀬川君は彼様いふ性質(たち)ですから、なか/\口へ出しては言ひませんがね。』
『ホウ、言はない事が奈何して君に知れる?』
『だつて、言葉で知れなくたつて、行為(おこなひ)の方で知れます。私は長く交際(つきあ)つて見て、瀬川君が種々(いろ/\)に変つて来た径路(みちすぢ)を多少知つて居ますから、奈何(どう)して彼様(あゝ)考へ込んで居るか、奈何して彼様憂欝に成つて居るか、それはもう彼の君の為(す)ることを見ると、自然と私の胸には感じることが有るんです。』
 斯(か)ういふ銀之助の言葉は深く対手の注意を惹いた。校長と郡視学の二人は巻煙草を燻(ふか)し乍ら、奈何(どう)銀之助が言出すかと、黙つて其話を待つて居たのである。
 銀之助に言はせると、丑松が憂欝に沈んで居るのは世間で噂(うはさ)するやうなことゝ全く関係の無い――実は、青年の時代には誰しも有勝ちな、其胸の苦痛(くるしみ)に烈しく悩まされて居るからで。意中の人が敬之進の娘といふことは、正に見当が付いて居る。しかし、丑松は彼様いふ気象の男であるから、其を友達に話さないのみか、相手の女にすらも話さないらしい。それそこが性分で、熟(じつ)と黙つて堪(こら)へて居て、唯敬之進とか省吾とか女の親兄弟に当る人々の為に種々(さま/″\)なことを為(し)て遣(や)つて居る――まあ、言はないものは、せめて尽して、それで心を慰めるのであらう。思へば人の知らない悲哀(かなしみ)を胸に湛へて居るのに相違ない。尤(もつと)も、自分は偶然なことからして、斯ういふ丑松の秘密を感得(かんづ)いた。しかも其はつい近頃のことで有ると言出した。『といふ訳で、』と銀之助は額へ手を当てゝ、『そこへ気が付いてから、瀬川君の為ることは悉皆(すつかり)読めるやうに成ました。どうも可笑(をか)しい/\と思つて見て居ましたツけ――そりやあもう、辻褄(つじつま)の合はないやうなことが沢山(たくさん)有つたものですから。』
『成程(なるほど)ねえ。あるひは左様いふことが有るかも知れない。』
 と言つて、校長は郡視学と顔を見合せた。
 

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