(四)
軈(やが)て銀之助は応接室を出て、復(ま)たもとの職員室へ来て見ると、丑松と文平の二人が他の教員に取囲(とりま)かれ乍ら頻(しきり)に大火鉢の側で言争つて居る。黙つて聞いて居る人々も、見れば、同じやうに身を入れて、あるものは立つて腕組したり、あるものは机に倚凭(よりかゝ)つて頬杖(ほゝづゑ)を突いたり、あるものは又たぐる/\室内を歩き廻つたりして、いづれも熱心に聞耳を立てゝ居る様子。のみならず、丑松の様子を窺(うかゞ)ひ澄まして、穿鑿(さぐり)を入れるやうな眼付したものもあれば、半信半疑らしい顔付の手合もある。銀之助は談話(はなし)の調子を聞いて、二人が一方ならず激昂して居ることを知つた。
『何を君等は議論してるんだ。』
と銀之助は笑ひ乍ら尋ねた。其時、人々の背後(うしろ)に腰掛け、手帳を繰り繙(ひろ)げ、丑松や文平の肖顔(にがほ)を写生し始めたのは準教員であつた。
『今ね、』と準教員は銀之助の方を振向いて見ながら、『猪子先生のことで、大分やかましく成つて来たところさ。』と言つて、一寸鉛筆の尖端(さき)を舐(な)めて、復(ま)た微笑(ほゝゑ)み乍ら写生に取懸つた。
『なにも其様(そんな)にやかましいことぢや無いよ。』斯う文平は聞咎(きゝとが)めたのである。『奈何(どう)して瀬川君は彼(あ)の先生の書いたものを研究する気に成つたのか、其を僕は聞いて見たばかりだ。』
『しかし、勝野君の言ふことは僕に能(よ)く解らない。』丑松の眼は燃え輝いて居るのであつた。
『だつて君、いづれ何か原因が有るだらうぢやないか。』と文平は飽(あ)く迄(まで)も皮肉に出る。
『原因とは?』丑松は肩を動(ゆす)り乍ら言つた。
『ぢやあ、斯(か)う言つたら好からう。』と文平は真面目に成つて、『譬(たと)へば――まあ僕は例を引くから聞き給へ。こゝに一人の男が有るとしたまへ。其男が発狂して居るとしたまへ。普通(なみ)のものが其様な発狂者を見たつて、それほど深い同情は起らないね。起らない筈(はず)さ、別に是方(こちら)に心を傷(いた)めることが無いのだもの。』
『むゝ、面白い。』と銀之助は文平と丑松の顔を見比べた。
『ところが、若(も)しこゝに酷(ひど)く苦んだり考へたりして居る人があつて、其人が今の発狂者を見たとしたまへ。さあ、思ひつめた可傷(いたま)しい光景(ありさま)も目に着くし、絶望の為に痩せた体格も目に着くし、日影に悄然(しよんぼり)として死といふことを考へて居るやうな顔付も目に着く。といふは外でも無い。発狂者を思ひやる丈(だけ)の苦痛(くるしみ)が矢張是方(こちら)にあるからだ。其処だ。瀬川君が人生問題なぞを考へて、猪子先生の苦んで居る光景(ありさま)に目が着くといふのは、何か瀬川君の方にも深く心を傷めることが有るからぢや無からうか。』
『無論だ。』と銀之助は引取つて言つた。『其が無ければ、第一読んで見たつて解りやしない。其だあね、僕が以前(まへ)から瀬川君に言つてるのは。尤も瀬川君が其を言へないのは、僕は百も承知だがね。』
『何故(なぜ)、言へないんだらう。』と文平は意味ありげに尋ねて見る。
『そこが持つて生れた性分サ。』と銀之助は何か思出したやうに、『瀬川君といふ人は昔から斯うだ。僕なぞはもうずん/\暴露(さらけだ)して、蔵(しま)つて置くといふことは出来ないがなあ。瀬川君の言はないのは、何も隠す積りで言はないのぢや無い、性分で言へないのだ。はゝゝゝゝ、御気の毒な訳さねえ――苦むやうに生れて来たんだから仕方が無い。』
斯う言つたので、聞いて居る人々は意味も無く笑出した。暫時(しばらく)準教員も写生の筆を休(や)めて眺めた。尋常一年の教師は又、丑松の背後(うしろ)へ廻つて、眼を細くして、密(そつ)と臭気(にほひ)を嗅(か)いで見るやうな真似をした。
『実は――』と文平は巻煙草の灰を落し乍ら、『ある処から猪子先生の書いたものを借りて来て、僕も読んで見た。一体、彼(あ)の先生は奈何(どう)いふ種類の人だらう。』
『奈何いふ種類とは?』と銀之助は戯れるやうに。
『哲学者でもなし、教育家でもなし、宗教家でもなし――左様かと言つて、普通の文学者とも思はれない。』
『先生は新しい思想家さ。』銀之助の答は斯うであつた。
『思想家?』と文平は嘲(あざけ)つたやうに、『ふゝ、僕に言はせると、空想家だ、夢想家だ――まあ、一種の狂人(きちがひ)だ。』
其調子がいかにも可笑(をか)しかつた。盛んな笑声が復(ま)た聞いて居る教師の間に起つた。銀之助も一緒に成つて笑つた。其時、憤慨の情は丑松が全身の血潮に交つて、一時に頭脳(あたま)の方へ衝きかゝるかのやう。蒼(あを)ざめて居た頬は遽然(にはかに)熱して来て、(まぶち)も耳も紅(あか)く成つた。