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破戒19-3
日期:2017-06-03 10:37  点击:317
        (三)
 
『何故(なぜ)、君は左様(さう)だらう。』と銀之助は同情(おもひやり)の深い言葉を続けた。『僕が斯(か)ういふ科学書生で、平素(しよつちゆう)其方(そつち)の研究にばかり頭を突込んでるものだから、あるひは僕見たやうなものに話したつて解らない、と君は思ふだらう。しかし、君、僕だつて左様冷い人間ぢや無いよ。他(ひと)の手疵(てきず)を負つて苦んで居るのを、傍(はた)で観て嘲笑(わら)つてるやうな、其様(そん)な残酷な人間ぢや無いよ。』
『君はまた妙なことを言ふぢやないか、誰も君のことを残酷だと言つたものは無いのに。』と丑松は臥俯(うつぶし)になつて答へる。
『そんなら僕にだつて話して聞かせて呉れ給へな。』
『話せとは?』
『何も左様君のやうに蔵(つゝ)んで居る必要は有るまいと思ふんだ。言はないから、其で君は余計に苦しいんだ。まあ、僕も、一時は研究々々で、あまり解剖的にばかり物事を見過ぎて居たが、此頃に成つて大に悟つたことが有る。それからずつと君の心情(こゝろもち)も解るやうに成つた。何故君があの蓮華寺へ引越したか、何故(なぜ)君が其様に独りで苦んで居るか――僕はもう何もかも察して居る。』
 丑松は答へなかつた。銀之助は猶(なほ)言葉を継(つ)いで、
『校長先生なぞに言はせると、斯ういふことは三文の価値(ねうち)も無いね。何ぞと言ふと、直に今の青年の病気だ。しかし、君、考へて見給へ。彼先生だつて一度は若い時も有つたらうぢやないか。自分等は鼻唄で通り越して置き乍ら、吾儕(われ/\)にばかり裃(かみしも)を着て歩けなんて――はゝゝゝゝ、まあ君、左様(さう)ぢや無いか。だから僕は言つて遣(や)つたよ。今日彼(あの)先生と郡視学とで僕を呼付けて、「何故(なぜ)瀬川君は彼様(あゝ)考へ込んで居るんだらう」と斯う聞くから、「其は貴方等(あなたがた)も覚えが有るでせう、誰だつて若い時は同じことです」と言つて遣つたよ。』
『フウ、左様かねえ、郡視学が其様なことを聞いたかねえ。』
『見給へ、君があまり沈んでるもんだから、つまらないことを言はれるんだ――だから君は誤解されるんだ。』
『誤解されるとは?』
『まあ、君のことを新平民だらうなんて――実に途方も無いことを言ふ人も有れば有るものだ。』
『はゝゝゝゝ。しかし、君、僕が新平民だとしたところで、一向差支は無いぢやないか。』
 長いこと室の内には声が無かつた。細目に点けて置いた洋燈(ランプ)の光は天井へ射して、円く朦朧(もうろう)と映つて居る。銀之助は其を熟視(みつ)め乍ら、種々(いろ/\)空想を描いて居たが、あまり丑松が黙つて了つて身動きも為ないので、終(しまひ)には友達は最早(もう)眠つたのかとも考へた。
『瀬川君、最早睡(ね)たのかい。』と声を掛けて見る。
『いゝや――未(ま)だ起きてる。』
 丑松は息を殺して寝床の上に慄(ふる)へて居たのである。
『妙に今夜は眠られない。』と銀之助は両手を懸蒲団の上に載せて、『まあ、君、もうすこし話さうぢやないか。僕は青年時代の悲哀(かなしみ)といふことを考へると、毎時(いつも)君の為に泣きたく成る。愛と名――あゝ、有為な青年を活すのも其だし、殺すのも其だ。実際、僕は君の心情を察して居る。君の性分としては左様(さう)あるべきだとも思つて居る。君の慕つて居る人に就いても、蔭乍(かげなが)ら僕は同情を寄せて居る。其だから今夜は斯様(こん)なことを言出しもしたんだが、まあ、僕に言はせると、あまり君は物を六(むづ)ヶ敷(しく)考へ過ぎて居るやうに思はれるね。其処だよ、僕が君に忠告したいと思ふことは。だつて君、左様ぢや無いか。何も其様に独りで苦んでばかり居なくたつても好からう。友達といふものが有つて見れば、そこはそれ相談の仕様によつて、随分道も開けるといふものさ――「土屋、斯(か)う為たら奈何(どう)だらう」とか何とか、君の方から切出して呉れると、及ばず乍ら僕だつて自分の力に出来る丈のことは尽すよ。』
『あゝ、左様(さう)言つて呉れるのは君ばかりだ。君の志は実に難有(ありがた)い。』と丑松は深い溜息を吐いた。『まあ、打開けて言へば、君の察して呉れるやうなことが有つた。確かに有つた。しかし――』
『ふむ。』
『君はまだ克(よ)く事情を知らないから、其で左様言つて呉れるんだらうと思ふんだ。実はねえ――其人は最早死んで了(しま)つたんだよ。』
 復(ま)た二人は無言に帰つた。やゝしばらくして、銀之助は声を懸けて見たが、其時はもう返事が無いのであつた。
 

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