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破戒19-6
日期:2017-06-03 10:38  点击:300
        (六)
 
『自分は一体何処へ行く積りなんだらう。』と丑松は二三町も歩いて来たかと思はれる頃、自分で自分に尋ねて見た。絶望と恐怖とに手を引かれて、目的(めあて)も無しに雪道を彷徨(さまよ)つて行つた時は、半ば夢の心地であつた。往来には町の人々が群り集つて、春迄も消えずにある大雪の仕末で多忙(いそが)しさう。板葺(いたぶき)の屋根の上に降積つたのが掻下(かきおろ)される度に、それがまた恐しい音して、往来の方へ崩れ落ちる。幾度か丑松は其音の為に驚かされた。そればかりでは無い、四五人集つて何か話して居るのを見ると、直に其を自分のことに取つて、疑はず怪まずには居られなかつたのである。
 とある町の角のところ、塩物売る店の横手にあたつて、貼付(はりつ)けてある広告が目についた。大幅な洋紙に墨黒々と書いて、赤い『インキ』で二重に丸なぞが付けてある。其下に立つて物見高く眺めて居る人々もあつた。思はず丑松も立留つた。見ると、市村弁護士の政見を発表する会で、蓮太郎の名前も演題も一緒に書並べてあつた。会場は上町の法福寺、其日午後六時から開会するとある。
 して見ると、丁度演説会は家々の夕飯が済む頃から始まるのだ。
 丑松は其広告を読んだばかりで、軈てまた前と同じ方角を指して歩いて行つた。疑心暗鬼とやら。今は其を明(あかる)い日光(ひかり)の中に経験する。種々(いろ/\)な恐しい顔、嘲り笑ふ声――およそ人種の憎悪(にくしみ)といふことを表したものは、右からも、左からも、丑松の身を囲繞(とりま)いた。意地の悪い烏は可厭(いや)に軽蔑(けいべつ)したやうな声を出して、得たり賢しと頭の上を啼(な)いて通る。あゝ、鳥ですら斯雪の上に倒れる人を待つのであらう。斯う考へると、浅猿(あさま)しく悲しく成つて、すた/\肴町(さかなまち)の通りを急いだ。
 何時の間にか丑松は千曲川(ちくまがは)の畔(ほとり)へ出て来た。そこは『下(しも)の渡し』と言つて、水に添ふ一帯の河原を下瞰(みおろ)すやうな位置にある。渡しとは言ひ乍ら、船橋で、下高井の地方へと交通するところ。一筋暗い色に見える雪の中の道には旅人の群が往つたり来たりして居た。荷を積けた橇(そり)も曳かれて通る。遠くつゞく河原(かはら)は一面の白い大海を見るやうで、蘆荻(ろてき)も、楊柳も、すべて深く隠れて了(しま)つた。高社、風原、中の沢、其他越後境へ連る多くの山々は言ふも更なり、対岸にある村落と杜(もり)の梢(こずゑ)とすら雪に埋没(うづも)れて、幽(かすか)に鶏の鳴きかはす声が聞える。千曲川は寂しく其間を流れるのであつた。
 斯ういふ光景(ありさま)は今丑松の眼前(めのまへ)に展(ひら)けた。平素(ふだん)は其程注意を引かないやうな物まで一々の印象が強く審(くは)しく眼に映つて見えたり、あるときは又、物の輪郭(かたち)すら朦朧(もうろう)として何もかも同じやうにぐら/\動いて見えたりする。『自分は是(これ)から将来(さき)奈何(どう)しよう――何処へ行つて、何を為よう――一体自分は何の為に是世(このよ)の中へ生れて来たんだらう。』思ひ乱れるばかりで、何の結末(まとまり)もつかなかつた。長いこと丑松は千曲川の水を眺め佇立(たゝず)んで居た。
 

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