(四)
其日、長野の師範校の生徒が二十人ばかり、参観と言つて学校の廊下を往つたり来たりした。丑松が受持の教室へも入つて来た。丁度高等四年では修身の学課を終つて、二時間目の数学に取掛つたところで、生徒は頻(しきり)に問題を考へて居る最中。参観人の群が戸を開けてあらはれた時は、一時靴の音で妨げられたが、軈(やが)て其も静つてもとの通りに成つた。寂(しん)とした教室の内には、石盤を滑る石筆の音ばかり。丑松は机と机との間を歩いて、名残惜しさうに一同の監督をした。時々参観人の方を注意して見ると、制服着た連中がずらりと壁に添ふて並んで、いづれも一廉(いつぱし)の批評家らしい顔付。楽しい学生時代の種々(さま/″\)は丑松の眼前(めのまへ)に彷彿(ちらつ)いて来た。丁度自分も同級の人達と一緒に、師範校の講師に連れられて、方々へ参観に出掛けた当時のことを思ひ浮べた。残酷な、とは言へ罪の無い批評をして、到るところの学校の教師を苦めたことを思ひ浮べた。丑松とても一度は斯の参観人と同じ制服を着た時代があつたのである。
『出来ましたか――出来たものは手を挙げて御覧なさい。』
といふ丑松の声に応じて、後列の方の級長を始め、すこし覚束ないと思はれるやうな生徒まで、互に争つて手を挙げた。あまり数学の出来る方でない省吾までも、めづらしく勇んで手を挙げた。
『風間さん。』
と指名すると、省吾は直に席を離れて、つか/\と黒板の前へ進んだ。
冬の日の光は窓の玻璃(ガラス)を通して教へ慣(な)れた教室の内を物寂しく照して見せる。平素(ふだん)は何の感想(かんじ)をも起させない高い天井から、四辺(まはり)の白壁まで、すべて新しく丑松の眼に映つた。正面に懸けてある黒板の前に立つて、白墨で解答(こたへ)を書いて居る省吾の後姿は、と見ると、実に今が可愛らしい少年の盛り、肩揚のある筒袖羽織(つゝそでばおり)を着て、首すこし傾(かし)げ、左の肩を下げ、高いところへ数字を書かうとする度に背延びしては右の手を届かせるのであつた。省吾は克く勉強する質(たち)の生徒で、図画とか、習字とか、作文とかは得意だが、毎時(いつも)理科や数学で失敗(しくじ)つて、丁度十五六番といふところを上つたり下つたりして居る。不思議にも其日は好く出来た。
『是と同じ答の出たものは手を挙げて御覧なさい。』
後列の方の生徒は揃つて手を挙げた。省吾は少許(すこし)顔を紅(あか)くして、やがて自分の席へ復(もど)つた。参観人は互に顔を見合せ乍ら、意味の無い微笑(ほゝゑみ)を交換(とりかは)して居たのである。
斯(か)ういふことを繰返して、問題を出したり、説明して聞かせたりして、数学の時間を送つた。其日に限つては、妙に生徒一同が静粛で、参観人の居ない最初の時間から悪戯(わるふざけ)なぞを為るものは無かつた。極(きま)りで居眠りを始める生徒や、狐鼠々々(こそ/\)机の下で無線電話をかける技師までが、唯もう行儀よくかしこまつて居た。噫(あゝ)、生徒の顔も見納め、教室も見納め、今は最後の稽古をする為に茲(こゝ)に立つて居る、と斯(か)う考へると、自然(おのづ)と丑松は胸を踊らせて、熱心を顔に表して教へた。