(二)
丑松のことは軈(やが)て二人の談話(はなし)に上つた。友に篤い銀之助の有様を眺めると、お志保はもう何もかも打明けて話さずには居られなかつたのである。其時、丑松の逢ひに来た様子を話した。顔は蒼(あを)ざめ、眼は悲愁(かなしみ)の色を湛(たゝ)へ、思ふことはあつても十分に其を言ひ得ないといふ風で――まあ、情が迫つて、別離(わかれ)の言葉もとぎれ/\であつたことを話した。忘れずに居る程のなさけがあらば、せめて社会(よのなか)の罪人(つみびと)と思へ、斯(か)う言つて、お志保の前に手を突いて、男らしく素性を告白(うちあ)けて行つたことを話した。
『真実(ほんたう)に御気の毒な様子でしたよ。』とお志保は添加(つけた)した。『いろ/\伺つて見たいと思つて居りますうちに、瀬川さんはもう帽子を冠つて、さつさと出て行つてお了ひなさる――後で私はさん/″\泣きました。』
『左様(さう)ですかあ。』と銀之助も嘆息して、『あゝ、僕の想像した通りだつた。定めし貴方(あなた)も驚いたでせう、瀬川君の素性を始めて御聞きになつた時は。』
『いゝえ。』お志保は力を入れて言ふのであつた。
『ホウ。』と銀之助は目を円(まる)くする。
『だつて今日始めてでも御座(ござい)ませんもの――勝野さんが何処(どこ)かで聞いていらしツて、いつぞや其を私に話しましたんですもの。』
この『始めてでも御座ません』が銀之助を驚した。しかし文平が何の為に其様なことをお志保の耳へ入れたのであらう、と聞咎(きゝとが)めて、
『彼男(あのをとこ)も饒舌家(おしやべり)で、真個(ほんたう)に仕方が無い奴だ。』と独語(ひとりごと)のやうに言つた。やがて、銀之助は何か思ひついたやうに、『何ですか、勝野君は其様(そんな)に御寺へ出掛けたんですか。』
『えゝ――蓮華寺の母が彼様(あゝ)いふ話好きな人で、男の方は淡泊(さつぱり)して居て可(いゝ)なんて申しますもんですから、克(よ)く勝野さんも遊びにいらツしやいました。』
『何だつてまた彼男は其様(そん)なことを貴方に話したんでせう。』斯(か)う銀之助は聞いて見るのであつた。
『まあ、妙なことを仰(おつしや)るんですよ。』とお志保は其を言ひかねて居る。
『妙なとは?』
『親類はこれ/\だの、今に自分は出世して見せるのツて――』
『今に出世して見せる?』と銀之助は其処に居ない人を嘲(あざけ)つたやうに笑つて、『へえ――其様なことを。』
『それから、あの、』とお志保は考深い眼付をし乍ら、『瀬川さんのことなぞ、それは酷(ひど)い悪口を仰いましたよ。其時私は始めて知りました。』
『あゝ、左様(さう)ですか、それで彼話(あのはなし)を御聞きに成つたんですか。』と言つて銀之助は熱心にお志保の顔を眺(なが)めた。急に気を変へて、『ちよツ、彼男も余計なことを喋舌つて歩いたものだ。』
『私もまあ彼様な方だとは思ひませんでした。だつて、あんまり酷いことを仰るんですもの。その悪口が普通(たゞ)の悪口では無いんですもの――私はもう口惜(くや)しくて、口惜しくて。』
『して見ると、貴方も瀬川君を気の毒だと思つて下さるんですかなあ。』
『でも、左様ぢや御座ませんか――新平民だつて何だつて毅然(しつかり)した方の方が、彼様(あん)な口先ばかりの方よりは余程(よつぽど)好いぢや御座ませんか。』
何の気なしに斯ういふことを言出したが、軈(やが)てお志保は伏目勝に成つて、血肥りのした娘らしい手を眺めたのである。
『あゝ。』と銀之助は嘆息して、『奈何(どう)して世の中は斯(か)う思ふやうに成らないものなんでせう。僕は瀬川君のことを考へると、実際哭(な)きたいやうな気が起ります。まあ、考へて見て下さい。唯あの男は素性が違ふといふだけでせう。それで職業も捨てなければならん、名誉も捨てなければならん――是程(これほど)残酷な話が有ませうか。』
『しかし、』とお志保は清(すゞ)しい眸(ひとみ)を輝した。『父親(おとつ)さんや母親(おつか)さんの血統(ちすぢ)が奈何(どんな)で御座ませうと、それは瀬川さんの知つたことぢや御座ますまい。』
『左様です――確かに左様です――彼男の知つたことでは無いんです。左様貴方が言つて下されば、奈何(どんな)に僕も心強いか知れません。実は僕は斯う思ひました――彼男の素性を御聞に成つたら、定めし貴方も今迄の瀬川君とは考へて下さるまいかと。』
『何故(なぜ)でせう?』
『だつて、それが普通ですもの。』
『あれ、他(ひと)は左様(さう)かも知れませんが、私は左様は思ひませんわ。』
『真実(ほんと)に? 真実に貴方は左様考へて下さるんですか――』
『まあ、奈何(どう)したら好う御座んせう。私は是でも真面目に御話して居る積りで御座ますのに。』
『ですから、僕が其を伺ひたいと言ふんです。』
『其と仰(おつしや)るのは?』
とお志保は問ひ反して、対手(あひて)の心を推量し乍ら眺めた。若々しい血潮は思はずお志保の頬に上るのであつた。