(三)
力の無い謦(せき)の声が奥の方で聞えた。急にお志保は耳を澄して心配さうに聞いて居たが、軈(やが)て一寸会釈(ゑしやく)して奥の方へ行つた。銀之助は独り炉辺(ろばた)に残つて燃え上る『ぼや』の火炎(ほのほ)を眺(なが)め乍ら、斯(か)ういふ切ない境遇のなかにも屈せず倒れずに行(や)る気で居るお志保の心の若々しさを感じた。烈しい気候を相手に克(よ)く働く信州北部の女は、いづれも剛健な、快活な気象に富むのである。苦痛に堪へ得ることは天性に近いと言つてもよい。まあ、お志保も矢張(やはり)其血を享(う)けたのだ。優婉(やさ)しいうちにも、どことなく毅然(しやん)としたところが有る。斯う銀之助は考へて、奈何(どう)友達のことを切出したものか、と思ひつゞけて居た。間も無くお志保は奥の方から出て来た。
『奈何(どう)ですか、父上(おとつ)さんの御様子は。』と銀之助は同情深(おもひやりぶか)く尋ねて見る。
『別に変りましたことも御座ませんけれど、』とお志保は萎(しを)れて、『今日は何(なんに)も頂きたくないと言つて、お粥(かゆ)を少許(ぽつちり)食べましたばかり――まあ、朝から眠りつゞけなんで御座ますよ。彼様(あんな)に眠るのが奈何(どう)でせうかしら。』
『何しろ其は御心配ですなあ。』
『どうせ長保(ながも)ちは有(あり)ますまいでせうよ。』とお志保は溜息を吐いた。『瀬川さんにも種々(いろ/\)御世話様には成ましたが、医者ですら見込が無いと言ふ位ですから――』
斯う言つて、癖のやうに鬢(びん)の毛を掻上げた。
『実に、人の一生はさま/″\ですなあ。』と銀之助はお志保の境涯(きやうがい)を思ひやつて、可傷(いたま)しいやうな気に成つた。『温い家庭の内に育つて、それほど生活の方の苦痛(くるしみ)も知らずに済(す)む人もあれば、又、貴方のやうに、若い時から艱難(かんなん)して、其風波(なみかぜ)に搓(も)まれて居るなかで、自然と性質を鍛(きた)へる人もある。まあ、貴方なぞは、苦んで、闘つて、それで女になるやうに生れて来たんですなあ。左様(さう)いふ人は左様いふ人で、他(ひと)の知らない悲しい日も有るかはりに、また他の知らない楽しい日も有るだらうと思ふんです。』
『楽しい日?』とお志保は寂しさうに微笑(ほゝゑ)み乍ら、『私なぞに其様(そん)な日が御座ませうかしら。』
『有ますとも。』と銀之助は力を入れて言つた。
『ほゝゝゝゝ――是迄(これまで)のことを考へて見ましても、其様な日なぞは参りさうも御座ません。まあ、私が貰はれて行きさへしませんければ、蓮華寺の母だつても彼様(あん)な思は為ずに済みましたのでせう。彼母を置いて出ます前には、奈何(どんな)に私も――』
『左様でせうとも。其は御察し申します。』
『いえ――私はもう死んで了(しま)ひましたも同じことなんで御座ます――唯(たゞ)、人様の情を思ひますものですから、其を力に……斯(か)うして生きて……』
『あゝ、瀬川君のも苦しい境遇だが、貴方のも苦しい境遇だ。畢竟(つまり)貴方が其程苦しい目に御逢(おあ)ひなすつたから、それで瀬川君の為にも哭(な)いて下さるといふものでせう。実は――僕は、あの友達を助けて頂きたいと思つて、斯うして貴方に御話して居るやうな訳ですが――』
『助けろと仰ると?』お志保の眸(ひとみ)は急に燃え輝いたのである。『私の力に出来ますことなら、奈何(どん)なことでも致しますけれど。』
『無論出来ることなんです。』
『私に?』
暫時(しばらく)二人は無言であつた。
『いつそ有の儘を御話しませう。』と銀之助は熱心に言出した。『丁度学校で宿直の晩のことでした。僕が瀬川君の意中を叩いて見たのです。其時僕の言ふには、「君のやうに左様(さう)独りで苦んで居ないで、少許(すこし)打明けて話したら奈何(どう)だ。あるひは僕見たやうな殺風景なものに話したつて解らない、と君は思ふかも知れない。しかし、僕だつて、其様(そん)な冷(つめた)い人間ぢや無いよ。まあ、僕に言はせると、あまり君は物を煩(むづか)しく考へ過ぎて居るやうに思はれる。友達といふものも有つて見れば、及ばず乍ら力に成るといふことも有らうぢやないか。」斯(か)う言ひました。すると、瀬川君は始めて貴方のことを言出して――「むゝ、君の察して呉れるやうなことがあつた。確かに有つた。しかし其人は最早(もう)死んで了つたものと思つて呉れたまへ。」斯う言ふぢや有ませんか。噫――瀬川君は自分の素性を考へて、到底及ばない希望(のぞみ)と絶念(あきら)めて了(しま)つたのでせう。今はもう人を可懐(なつか)しいとも思はん――是程悲しい情愛が有ませうか。それで瀬川君は貴方のところへ来て、今迄蔵(つゝ)んで居た素性を自白したのです。そこです――もし貴方に彼(あ)の男の真情(こゝろもち)が解りましたら、一つ助けてやらうといふ思想(かんがへ)を持つて下さることは出来ますまいか。』
『まあ、何と申上げて可(いゝ)か解りませんけれど――』とお志保は耳の根元までも紅(あか)くなつて、『私はもう其積りで居りますんですよ。』
『一生?』と銀之助はお志保の顔を熟視(まも)り乍ら尋ねた。
『はあ。』
このお志保の答は銀之助の心を驚したのである。愛も、涙も、決心も、すべて斯(こ)の一息のうちに含まれて居た。