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破戒23-2
日期:2017-06-03 10:46  点击:352
        (二)
 
 上の渡しの方へ曲らうとする町の角で、一同はお志保に出逢(であ)つた。
 丁度お志保は音作を連れて、留守は音作の女房に頼んで置いて、見送りの為に其処に待合せて居たところ。丑松とお志保――実にこの二人の歓会は傍(はた)で観る人の心にすら深い/\感動を与へたのであつた。冠つて居る帽子を無造作に脱いで、お志保の前に黙礼したは、丑松。清(すゞ)しい、とはいへ涙に霑(ぬ)れた眸(ひとみ)をあげて、丑松の顔を熟視(まも)つたは、お志保。仮令(たとひ)口唇(くちびる)にいかなる言葉があつても、其時の互の情緒(こゝろもち)を表すことは出来なかつたであらう。斯(か)うして現世(このよ)に生きながらへるといふことすら、既にもう不思議な運命の力としか思はれなかつた。まして、さま/″\な境涯を通過(とほりこ)して、復(ま)た逢ふ迄の長い別離(わかれ)を告げる為に、互に可懐(なつか)しい顔と顔とを合せることが出来ようとは。
 丑松の紹介で、お志保は始めて未亡人と弁護士とを知つた。女同志は直に一緒に成つて、言葉を交し乍ら歩き初めた。音作も亦(また)、丑松と弁護士との談話仲間(はなしなかま)に入つて、敬之進の容体などを語り聞せる。正直な、樸訥(ぼくとつ)な、農夫らしい調子で、主人思ひの音作が風間の家のことを言出した時は、弁護士も丑松も耳を傾けた。音作の言ふには、もしも病人に万一のことが有つたら一切は自分で引受けよう、そのかはりお志保と省吾の身の上を頼む――まあ、自分も子は無し、主人の許しは有るし、するからして、あのお末を貰受けて、形見と思つて育(やしな)ふ積りであると話した。
 上の渡しの長い船橋を越えて対岸の休茶屋に着いたは間も無くであつた。そこには銀之助が早くから待受けて居た。例の下高井の大尽も出て迎へる。弁護士が丑松に紹介した斯(こ)の大日向といふ人は、見たところ余り価値(ねうち)の無ささうな――丁度田舎の漢方医者とでも言つたやうな、平凡な容貌(かほつき)で、これが亜米利加(アメリカ)の『テキサス』あたりへ渡つて新事業を起さうとする人物とは、いかにしても受取れなかつたのである。しかし、言葉を交して居るうちに、次第に丑松は斯人(このひと)の堅実(たしか)な、引締つた、どうやら底の知れないところもある性質を感得(かんづ)くやうに成つた。大日向は『テキサス』にあるといふ日本村のことを丑松に語り聞せた。北佐久の地方から出て遠く其日本村へ渡つた人々のことを語り聞せた。一人、相応の資産ある家に生れて、東京麻布の中学を卒業した青年も、矢張其渡航者の群に交つたことなぞを語り聞せた。
『へえ、左様(さう)でしたか。』と大日向は鷹匠町の宿のことを言出して笑つた。『貴方も彼処(あすこ)の家に泊つておいででしたか。いや、彼時は酷(ひど)い熱湯(にえゆ)を浴せかけられましたよ。実は、私も、彼様いふ目に逢はせられたもんですから、其が深因(もと)で今度の事業(しごと)を思立つたやうな訳なんです。今でこそ斯うして笑つて御話するやうなものゝ、どうして彼時は――全く、残念に思ひましたからなあ。』
 盛んな笑声は腰掛けて居る人々の間に起つた。其時、大日向は飛んだところで述懐を始めたと心付いて、苦々しさうに笑つて、丑松と一緒にそこへ腰掛けた。
『かみさん――それでは先刻(さつき)のものを茲(こゝ)へ出して下さい。』
 と銀之助は指図する。『お見立(みたて)』と言つて、別離(わかれ)の酒を斯の江畔(かうはん)の休茶屋で酌交(くみかは)すのは、送る人も、送られる人も、共に/\長く忘れまいと思つたことであつたらう。銀之助は其朝の亭主役、早くから来てそれ/″\の用意、万事無造作な書生流儀が反つて熱(あたゝか)い情を忍ばせたのである。
『いろ/\君には御世話に成つた。』と丑松は感慨に堪へないといふ調子で言つた。
『それは御互ひサ。』と銀之助は笑つて、『しかし、斯うして君を送らうとは、僕も思ひがけなかつたよ。送別会なぞをして貰つた僕の方が反(かへ)つて君よりは後に成つた。はゝゝゝゝ――人の一生といふ奴は実際解らないものさね。』
『いづれ復(ま)た東京で逢はう。』と丑松は熱心に友達の顔を眺(なが)める。
『あゝ、其内に僕も出掛ける。さあ何(なんに)もないが一盃(いつぱい)飲んで呉れ給へ。』と言つて、銀之助は振返つて見て、『お志保さん、済(す)みませんが、一つ御酌(おしやく)して下さいませんか。』
 お志保は酒瓶(てうし)を持添へて勧めた。歓喜(よろこび)と哀傷(かなしみ)とが一緒になつて小な胸の中を往来するといふことは、其白い、優しい手の慄(ふる)へるのを見ても知れた。
『貴方(あなた)も一つ御上りなすつて下さい。』と銀之助は可羞(はづか)しがるお志保の手から無理やりに酒瓶(てうし)を受取つて、かはりに盃を勧め乍ら、『さあ、僕が御酌しませう。』
『いえ、私は頂けません。』とお志保は盃を押隠すやうにする。
『そりや不可(いけない)。』と大日向は笑ひ乍ら言葉を添へた。『斯(か)ういふ時には召上るものです。真似でもなんでも好う御座んすから、一つ御受けなすつて下さい。』
『ほんのしるしでサ。』と弁護士も横から。
『何卒(どうぞ)、それでは、少許(ぽつちり)頂かせて下さい。』
 と言つて、お志保は飲む真似をして、紅(あか)くなつた。

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