浮 橋
毎朝、修子は八時少し前に家を出る。
瀬田のマンションから赤坂の会社までは小一時間あれば行けるから、定刻の九時よりはかなり早めに着くことになる。
だが修子は時間ぎりぎりに駆けつけるのは好きではないし、それより少し先に着いて自分のまわりだけは、きちんとしておきたい。
会社に着いて、修子がまず手をつけるのは社長室と自分の部屋との掃除である。といっても、おおまかな掃除は、清掃会社のほうでやってくれるので、修子がやるのはテーブルを拭き、書棚や窓ぎわに乾布巾《からぶきん》をかけ、花を飾ることである。
社長室にくる客がときどき「ここはいつも塵《ちり》一つなく、清潔で気持がいいね」と褒《ほ》めてくれる。
自分でいうのも可笑《おか》しいが、掃除だけは自信があるが、その几帳面さは母から受け継いだものである。
一通りテーブルと棚を拭き終ったところで、修子は花を活け、コーヒーを淹《い》れる。もっとも、花は毎週、月曜日の朝に新しいのを買ってきて活けるので、他の日は水を替えるだけである。
飾る花はいろいろだが、社長室にはクリスタルの大きな花瓶がおいてあるので、主に季節の洋花になる。他に社長のテーブルの上に、クリスタルの小さなボウルをおき、そこに牡丹やスイートピーの花などを、水に浮かせておく。
掃除が終ると、修子は資料室に行き、昨夜から今朝にかけて各地から入ってきたファックスやテレックスを調べ、社長に廻すべきものを選んで整理する。さらに主な朝刊に目を通し、会社に関係があるものをチェックし、ときに切り抜く。これらの仕事が一段落した十時過ぎに馬場社長が現れる。
「お早ようございます」
どんなときでも、修子は朝の挨拶だけは明るい声でいうように努めている。
社長は今年五十二歳で、遠野とは三つ違いである。
だが外見や性格はずいぶん違う。
遠野はかなりの長身だが、馬場社長は横幅があって、やや小柄である。
遠野は意外に繊細でナイーブなところがあるが、馬場社長は猪突猛進、ひたすら強引に突きすすむタイプである。もしかすると、その行動の明快さが、本社の幹部にかわれて、外国企業の日本支社長という要職を与えられたのかもしれない。
同業者や取引先の人々には、やり手のマネージャーと思われているようだが、修子には優しい、話のわかる社長である。
この社長のただ一つの欠点は、英語があまり得意でないことである。もちろんある程度の読み書きはできるが、会話が苦手である。
外国企業の日本支社長なのに、英語が苦手で務まるのかと首を傾《かし》げる人もいるが、基本的な意思さえ通じれば、さして問題になることはない。それより日本人をつかうには、日本人のマネージャーのほうがいいということで、二年前にいまのポストに就いた。
むろん社長の語学の足りないところは、修子が補うことになる。
社長が部屋に坐ると、修子はまずコーヒーを運び、それからあらかじめ揃えてあったファックスとテレックスを差し出す。それに社長が一通り目をとおしたころを見計らって、修子は社長の今日一日のスケジュールを説明する。
ロイヤルクリスタルの製品は、ここ数年で急速に日本での需要をのばし、いまや当初の三倍の売上げに達している。製品自体かなり高価なものだが、円高と好景気が幸いして企業の贈答用の需要が多く、これからの中元商戦が一つのヤマ場である。
それでも、国内はまだ東京と大阪が中心で、中京はじめ北海道や九州など、地方にいかに浸透させるかが今後の課題になっている。
現在、東京の本社を中心に、営業関係もいれて二百人の社員がいるが、さらに増員する予定である。
いま伸びざかりの会社だけに、社長のスケジュールは忙しい。
今日はまず十時半から販売促進の会議があり、それから二組ほど来客がある。午後は香港にいるサザランド東洋支配人がきて社長と要談する。そのあと品川のホテルで開かれる関連会社のパーティに行く予定になっている。
修子が社長と同席するのは、サザランド支配人と会うときだけだが、これは二人だけで、他の社員は同席しない。むろん修子が通訳するが、支配人はかつて日本の支社長をしていたので気が楽である。
修子は日本で英語を習ったあと、ロンドンに三年間ほどいたが、支配人に「綺麗な英語だ」と褒められたことがある。サザランドのような、根っからのロンドンっ子に褒められたことは、修子にとって大きな自信になったが、できることならさらに半年、ロンドンに留学して勉強したい。
社長は一通りのスケジュールをきくと、コーヒーを飲みながらテーブルの上の花を眺める。
「これは珍しい、日本の花だね」
「テッセンですけど、結構、クリスタルに合うようです」
最近、修子は趣向を変えて、ときどき和花を買ってくる。今朝も、思いきって茶室などに使うテッセンを買ってきて、首の長い花器に挿してみた。細い枝の面白味を出すために、一部花器の下まで垂らしてみたが、それがクリスタルの面に映って清々しい。
「こういう活け方は、外人にはできないだろうな」
「おかしいですか?」
「いや、そんなことはない。それより今度、和風の花瓶もつくるように本社にいってみようか」
クリスタル製品は、食器はもちろん、花瓶から置きもの、小物入れなど、さまざまなものがつくられている。そのことから考えれば、和風の花器があっても、おかしくはない。
「君はお花ができるのだから、どういうのがいいか少し考えてみてくれ」
社長はそういってから、ふと思い出したようにきく。
「京都のホテルを、頼んでおいてくれたかな」
「はい、土曜の夜、一泊ですね」
社長はその日、大阪に出張して京都に泊ることになっている。
「部屋は、ツインかな」
「そうかと、思いますが」
「ダブルにしておいてくれないか」
社長はそこでまた慌てたようにつけ足した。
「一人だけど、どうせ泊るならダブルのほうが楽だからね」
「承知しました」
秘書という立場上、修子には社長の一挙手一投足が手にとるようにわかる。
最近、社長は赤坂にあるクラブの女性と際《つ》き合っているらしいが、今度の大阪への出張には、その女性を連れていくのかもしれない。
修子がそう感じるのには、いくつかの理由があるが、まずこの数日、岡田と名のる女性から二度ほど電話がきた。社長への電話はすべて修子がいったん受け、それから社長のデスクへ廻すので、誰からきたかすぐわかる。それにいつもは修子にとらせる新幹線の切符を、今回は珍しく社長自身が買うといいだした。そしていま、ツインの部屋をダブルに替えてくれという。
たしかに社長がいうとおり、ダブルのほうが寝心地がいいかもしれないが、そのあと、いい訳がましく理由をいうところが怪しい。
だが、修子はそんなことを追及する気はないし、ましてや他人にいう気なぞない。社長の秘密を守るのが秘書の第一の務めである。
それより、修子が興味があるのは、表面はやり手といわれる分別ざかりの男が、それとはべつの、さまざまな顔を秘めていることである。
男はみんな、ああなのだろうか。
社長を見ながら、修子は遠野のことを考える。
仕事柄、遠野もよく出張するが、これまで、彼がべつの女性と二人で出かけた気配はない。
もちろん、だから安心というわけではないが、その種のことで疑ったことはないし、深く考えたこともない。
はっきりいって、修子は遠野と逢っているときに彼の愛を確認できればいいし、それ以上、彼の行動を探ろうとは思わない。
よく女性のなかには、黙っていると男は図にのるから、うるさくいったほうがいいという人もいるが、騒げばかえって火をかきたてることになりかねない。ともかく、修子はまだ、そういうことで遠野と争ったことはない。
それにしても、男というのは困った生きものである。
社長は、はたから羨《うらや》まれるほどの美しい夫人をもっている。彼女は四十半ばだが上品で、ほとんどの社員が「社長には惜しい……」といっている。
そんな素敵な妻がいながら、密《ひそ》やかに別の女性と旅行する。
社長にかぎらず、オフィス.ラブを楽しんでいる男性は他にもいる。
もちろんそういう男性がいるということは、相手になる女性もいるということだが、遊んでいない男達もそうした不倫に憧れているようである。
しかも困ったことに、遊んでいる男のほうが生き生きとして仕事もよくできる。
会社にも、修子にいい寄ってくる男性はいる。それも独身ならともかく、妻子がいて、表面、実直そうな男性が平然と近づいてくる。修子が独身のせいもあるだろうが、そういう男達を見ていると、男とは一体なんだろうと考えこんでしまう。
どうやら、この生きものは女とはまったく違うらしい。
「性懲《しようこ》りもなく」とも思うが、見方を変えると、それが男の可愛いところなのかもしれない。
いずれにせよ、修子が遠野を愛しながら一步距離をおき、冷静に見られるのは、そうした男性の実態を別の視点から見ているせいかもしれない。
その日のサザランド東洋支配人と社長の会議は順調にすすんだ。
話の内容は、馬場社長のほうから、日本国内のシェアを広げるための新しい企画を披露し、それにともなう経費の増額を求めたものだが、支配人は全面的に協力することを約束した。
通訳を終えて別れるとき、支配人は修子に「相変らず、チャーミングだ」といってくれた。お世辞かもしれないが、褒められて悪い気はしない。
支配人が去ったあと、修子が少しはずんだ気持でタイプを打っていると、岡部要介から電話がかかってきた。
「今夜ですけど、覚えているでしょうね」
いつものことだが、電話での要介の声は少し怒っているように聞こえる。
「あなたが忘れていないかと思って、確認の電話をしたのです」
岡部要介とは今夜六時に、赤坂のホテルで逢って食事をすることになっていた。
「僕は少し早めに行ってますから、入って右手のコーヒーラウンジですよ」
修子はうなずきながら、一カ月前の遠野の誕生日に同じホテルで食事をしたことを思い出した。もっとも遠野と逢ったのは旧館で、今度は新館である。
「あなたさえよかったら、会社の前まで迎えに行ってもいいんですけど」
「大丈夫です。一人で行けますから」
要介は早生れなので修子より一つ年齢が上の三十三歳である。商事会社としては中堅の大同物産に勤めているが、実家は仙台で大きな家具店をやっているらしい。そんなところの息子が独身のまま、何故、修子のような三十を越えた女を追いかけるのか、不思議な気がするが、本人はかなり真面目である。
二カ月前に逢ったときには、「あなたのような女性が、僕の長年探していた理想です」と、やはり怒ったような口調でいった。それ以来何度か誘われたが、その都度、断っていたので今度も心配になったのかもしれない。
「じゃあ、必ずきて下さい」
もう一度念をおして要介は電話を切ったが、そのあと十分もせずに今度は遠野からかかってきた。
「おや、いまはボスがいないんだな」
電話の声の調子で、遠野はそばに社長がいないのがわかるらしい。
「なにをしている?」
「一寸、タイプを打っていました」
遠野も少し時間があいて、自分の部屋からかけているらしい。
「今夜は、どうしている?」
「どうって……」
修子はキイの上に指をのせたまま、聞き返した。
「久し振りに食事でもと思っていたんだが、また会合が入ってしまってね」
遠野は、いいわけのつもりで電話をよこしたようである。
「そのあと、なるべく早く戻るけど、修は?」
「わたしも少し、遅くなるかもしれません」
「どこかへ行くのか」
「一寸、お食事に……」
「誰と?」
修子は少し間をおいてから答えた。
「お友達です」
「部屋には何時ごろに、帰る?」
「十時までには戻るつもりです」
「じゃあ、同じ頃に合わせよう。それ以上、遅くなることはないだろうな」
自分が遅くなるときは連絡もよこさないくせに、修子が遅くなるときにはいろいろきいてくる。
「相手は女の友達なのだろうな」
「そうよ……」
修子はうなずきながら、案外あっさりと嘘をつける自分に呆れてもいる。
修子が約束の六時に、赤坂のホテルのコーヒーラウンジに行くと、岡部要介はすでに来て待っていた。
「このホテルの旧館のほうに素敵なレストランがあるんですが、そちらに行きませんか」
そのレストランはこの前、遠野と一緒に行ったところだが、修子は初めてのようにうなずいた。
要介は先になってエレベーターに乗り、旧館への通路を経て、二階のレストランへ行く。
「岡部です」
あらかじめ予約してあったらしく、要介が名前を告げる。
マネージャーは丁重に頭を下げてから、修子を見て、「おや……」といった顔をする。
「どうぞ、こちらへ」
そのまま案内されて、やや入口に近い席に向かい合って坐る。
今日の要介は淡いグレイのスーツに臙脂《えんじ》のネクタイを締めて、なかなか渋くまとめている。大学時代はラグビーをやっていたというが、がっしりした肩幅にその名残りが見える。
「ここは、来たことがありますか?」
いきなりきかれて、修子は曖昧《あいまい》に答える。
「大分前に、一寸……」
「都心にあるけどなかなか落着いて、雰囲気がいいので……」
「とても、静かだわ」
まだ時間が早いせいか、レストランには二組の客しかいない。
「なにに、しましょうか」
要介はメニューを見ていたが、やがて一番高価そうなディナーのコースを示す。
「これで、いいですか」
「わたしは、もっと軽いので」
「大丈夫ですよ、食べられなければ残してください」
要介は、さらにワインリストを広げる。
「なにか、ご希望のワインはありますか」
「なんでも、結構ですから……」
修子は安いのでかまわないのに、要介はまた高いのを頼んだようである。
ソムリエはうなずき、それから修子を見て軽く会釈する。
ここへは遠野と何度か来ているので、マネージャーもソムリエも修子を覚えているようである。
べつに遠野と来ていることを知られて困るわけではないが、せっかく要介が案内してくれたところを、あまり知っているように振舞っては悪いような気がする。
「じゃあ、乾盃」
ワインが注《つ》がれたところで要介がグラスを差し出し、それに修子も合わせる。
「どうですか、これはシャトー.ジスクールの七五年ものです」
「飲みやすいわ」
「この年は葡萄が豊作で、最近のものでは一番いいといわれています」
要介はいろいろ説明してくれるが、どこかにわか仕込みの知識といった感じが否《いな》めない。
もしかすると、要介は今日のためにワインのことまで勉強してきたのかもしれない。それを早速披露するところが青年の若さであり、気取りかもしれない。
だが正直いって、修子は遠野といるほうがはるかに気が楽である。
当然のことながら、遠野はそんな説明はなにもしないし、好きなものを暢《の》んびり食べているだけである。むろん遠野と一緒なら、相手の懐具合まで心配することもない。すべて彼のペースに任せておいて安心である。
しかし要介といると、自分が介添役になって、面倒を見てやらなければならないような気になってくる。一流のレストランにきて、高価な食事をご馳走されながら、どこかはらはらさせられるところがある。
「最近は青山のあたりにも、いいレストランができてきて……」
オードブルを食べながら、要介は都内の高級店や料理のことについて話すが、どうやら修子のほうが、その種の店には多く出入りしているようである。
もちろん、それは秘書という立場から社長のお伴をしたり、遠野と一緒に行くからで、修子一人の力ではそう頻繁《ひんぱん》には行けるところではない。
当然のことながら、要介の年齢では高価なところに行く機会は少ないはずだが、ことさらに知っているようなことをいう。
そんな要介を見ていると、同じ年齢なのに稚《おさな》さを感じる。
もともと男と女が同年齢の場合、女のほうがませている場合が多い。それは表面の態度だけでなく、人生の体験においても同様かもしれない。
正直いって、修子はこれまで三人の男性を知っている。最初は学生のときに史学科の助手と親しくなり、二人目はロンドンにいた商社員で、三人目は遠野である。
当然のことながら、三人のなかでは遠野と最も親しく一番影響も受けてきた。遠野と較べると、他の二人の男性はごく軽い存在にすぎない。
むろん男性を多く知っていれば、それだけ人生経験が豊富というわけでもない。
だが妻子ある遠野と際《つ》き合い、愛人という立場に立たされて、修子はいままでとはべつの男女の内側を見たような気がする。
こんな修子と較べると、要介はかなり純情かもしれない。彼は彼なりに遊んでいるのかもしれないが、独身だけに、男と女の深いところまではわかっていないようである。
その証拠に、要介はまだ女性に多くの夢を抱いているらしい。女を信じ、女の美しいところだけを見て、それがすべてと思いこんでいるようなところがある。
要介が修子に求めているのも、そうした夢の部分のようである。
「あなたのような女性が、僕が長年探していた理想です」
そう面と向かっていわれたとき、修子は背筋に冷水を浴びせられたような気がした。
「わたしはあなたが思うほど、美しくも心が優しい女でもないわ。それどころか、大人しい仮面のなかに、独善やふしだらや我儘など、さまざまな悪いところを秘めているのよ」
修子はそういいたい気持をおさえて黙っていた。
だが要介はそういう部分には目をくれようともせず、ひたすら誠実に迫ってくる。
いまもやや上気したような目で修子を見詰めるが、その度に修子は射すくめられたような気がして息苦しくなってしまう。
純粋すぎる人は怖い。修子が要介からのデートの申し込みの度に感じる気の重さは、そういうところに原因があるのかもしれない。
それでもときどき要介と会うのは、その純粋な目差しに見詰められる緊張感が心地いいからである。たまにならそういう青年の一途《いちず》に迫ってくる感じも悪くはない。
しかしいま修子が一番愛しているのは遠野である。彼を信頼し、最も大切に思っていることはまぎれもない事実である。
だがときに、要介の熱い目差しや賞讃の言葉も欲しくなる。
考えてみると、要介は、修子が一時的に|ときめく《ヽヽヽヽ》ための刺戟剤のようでもある。
それで修子は満足だが、刺戟剤にされた要介こそいい迷惑である。そんなことにだけ利用するのは悪いと思うが、要介は修子の本当の気持をまだわかっていないようである。
事実、今夜も要介は、修子が自分を好きだから出てきたのだと思っている節がある。
その証拠に、「僕を、多少は好きですか」と堂々ときいてきた。
ワインの酔いのせいかもしれないが、単なる冗談とも思えない。
「もちろん、嫌いな人とは食事をしないでしょう」
はっきりいって、いま修子は要介を好きではあるが、愛してはいない。好ましい青年とは思っているが、そこから一步すすんで親しくなろうとは思わない。
修子のなかで、「愛している」と「好き」とはべつものである。
この違いを、要介がどれだけわかっているかは不明である。
何度かワインを注がれているうちに、修子は少し酔ったようである。
メインのビーフククイレが終り、デザートにメロンがでたところでトイレに立つと、目の縁が赤い。
「少し、飲みすぎたわ」
化粧室から戻ってきて両の頬をおさえると、要介が改まった口調でいう。
「どうして、あなたのように美しい女性が独身でいるのですか」
いきなり話題が変って戸惑っていると、要介がさらに続ける。
「あなたが独身でいるなんてもったいない。いま、好きな人はいないのですか」
要介のきき方はいつも突飛である。予告もなしにずばりと核心に触れてくる。
「わたし、当分、結婚はしません」
「しかしいつまでも独りでいるわけにはいかないでしょう」
「とにかく、いまのところは結婚する気はないんです」
「じゃあ、他に好きな人がいるのですね。そういう人がいるから暢《の》んびりかまえているのでしょう」
修子が黙っていると、要介が目を伏せながらいう。
「変なことを、きいてもいいですか」
「なんでしょう?」
「あなたは秘書でしょう。間違っていたら悪いけど、社長と秘書とは親しくなることが多いというけど……」
「まさか……」
修子は食後のデザートのメロンにスプーンをつけたまま苦笑する。
いかにも、要介が考えそうなことだが、修子は社長を好ましく思ってはいても、愛を感じたことはない。社長もそのあたりのことは承知していて、仕事以上に近づくことはない。
「じゃあ、社長とはないと信じていいんですね」
「少し、お酔いになったんじゃありませんか」
「済みません」
要介は素直に謝る。
「しかし、あなたは絶対に好きな人がいるでしょう。いなければ、そんなに悠々としてはいられないはずだけど」
「わたし、悠々としているように見えますか」
「よくはわからないけど……」
「わたし、結婚には向いていないのです」
「そんなことはない。あなたは綺麗好きだし、家庭に入ったらいい奥さんになれる」
「どうして、そんなことがわかるのですか」
「あなたを見ていればわかります。とにかく、美しくて色っぽい」
「そんな……」
修子は大袈裟に驚いてみせたが、それと同じことは会社の男性達にもいわれたことがある。
色っぽいと、自分で意識したことはないが、よくいわれるところをみると、男性達はその種のものを感知する独特の勘があるのかもしれない。
「あなたは、世田谷の瀬田に住んでいるといったでしょう」
要介はそこで言葉を探すように少し間をおいた。
「そこに、本当に一人で住んでいるのですか」
「もちろんよ」
「まさか、誰かと住んでいるわけではないでしょうね」
修子は一瞬ぎくりとした。遠野とは同棲というわけではないが、彼がときどき泊っていくことはたしかである。
「今度一度、部屋に遊びに行ってもいいですか」
「かまいませんけど、遠いし、狭いところですから」
「でも電車に乗れば、ここから一時間もかからないでしょう」
「そのうち、お招きします」
「本当は迷惑なのでしょう」
「そんなことはありませんけど、あなたは会社の近くで、いつでも会えるから……」
「外で会うのもいいけど、あなたの部屋にも行ってみたい」
要介は少し駄々っ子みたいなところがある。それが可愛いときもあるが、ときに鬱陶《うつとう》しいときもある。
「今日、これから、行ってはいけませんか」
「それは無理よ……」
修子は慌ててナプキンで口を拭いた。
「散らかっていて、とてもお見せするようなところじゃないわ」
「でも、一度でいいからあなたの部屋を覗《のぞ》いてみたい」
「駄目よ」
修子は首を横に振りながら、今夜、遠野がくるといっていたことを思い出した。十時か、もう少しあとになるかもしれないが、仕事の関係のパーティに出たあとにくるといっていた。
「じゃあ、お茶を一杯、飲ませてもらったら帰りますから、いいでしょう」
「………」
「失礼なことはしません、お願いです」
要介が深々と頭を下げる。はたから見るとどんな風に見えるのか、修子は気になる。
「さあ、もうそんな話はやめましょう」
「やっぱり、駄目ですか」
「そのうちね」
「じゃあ、かわりに、これから僕と一緒に飲みに行って下さい」
腕時計を見ると八時半だった。
これから飲みに行っては遠野が部屋にくるまでに帰れないかもしれない。
そう思いながら、要介と飲みに行くことを考えていた。
秘書という仕事は比較的孤独である。会社に出ても一般の社員とは離れて、一人だけ社長や重役のそばにいる。
修子は、野球の捕手を見る度に、なんとなく秘書の立場を思い出す。フィールドにはチームメートが散らばっているのに、捕手だけ一人、他のチームに近いところにいて、バッターやアンパイヤーに囲まれている。
秘書も常に社長の近くにいるので経営者側の人間のように思われるが、経営者ではない。いいかえると、どちらつかずの中途半端な存在である。
そのせいか、社の女性達と親しく話すこともあまりない。
むろん昼休みや仕事が終ったあとで、彼女等と話す機会はある。が、仕事の都合で昼食が遅れたり、秘書室で一人で食べることも多いし、たとえ一緒になっても、彼女等のほうで秘書という立場に一目おいているようなところがある。そんな特別扱いがいやで、修子はできるだけみなのなかに入っていくように努めるが、それでもいま一つ入りきれない。
このあたりが秘書の淋しさだが、それで少し助かっているところもある。たとえば遠野からの電話だが、直接秘書室に入ってくるので一般の社員には知られずにすむ。さらに隔離されている分だけ、社内のつまらぬ噂話に巻きこまれることもない。
いま、修子が社内で最も親しくしているのは、広報部の庄野千佳子くらいなものである。彼女は修子の三歳上で、結婚して子供もいるが、広報部の課長をしている。なかなかのやり手で上司の信頼も厚いが、気性がさっぱりしていて女子社員のなかではもっとも気が合う。
彼女を除けば、修子はむしろ男性社員とのほうが話し易いし、彼等も気軽に話しかけてくれる。なかには総務部長のように、「このごろ、また一段と色っぽくなったな」と、素早くお臀《しり》に触っていくワルもいる。
だがそれだけ気軽に話していても、そこから一步すすんで本気で近付いてくる男性はいない。こんな状態に対して、千佳子は彼女なりの解説をしてみせる。
「あなたほどの女なら、きっとどこかにいい人がいると思いこんでいるのよ。男ってみなプライドが高いから、この女性は難しいと思うと、すぐ諦めてチャレンジしてこないのよ」
そんな風にいわれるといささか残念だが、こちらから「近付いてきて」と、頼むわけにもいかない。
しかしこういう状況下では、向こう見ずな岡部要介の存在は貴重である。社内の男性達が考えたり戸惑っているのに、彼だけはまっしぐらに向かってくる。
もっとも要介の場合は、社外の人間であるだけに気が楽なのかもしれない。
「これから、赤坂に行きましょう、一寸知っているバーがあるのです」
いまも要介は強引に誘ってくる。
久し振りに若い男性と二人だけで食事をしたせいか、もう一軒くらい飲みに行ってみたい気もするが時刻はすでに九時に近い。これからバーへ行くと、マンションに戻るのは十一時近くになって、遠野との約束の時間に遅れてしまう。
もっとも、彼とはっきり、時間の約束までしたわけではない。大体、十時ころにマンションに来るつもりかもしれないが、遠野のことだから、十時半になるか、十一時になるかわからない。
だがもし十時にくると、部屋に入れずに、外で待ちぼうけをくわすことになる。
こんなときのために、修子は何度か、遠野に鍵を渡そうかと思ったことがある。彼が鍵を持っていれば、こちらが多少遅れても、部屋のなかで待つことができる。実際、遠野も「部屋の鍵があると便利だけど……」といったことがある。
だが、修子は苦笑しただけで渡さなかった。
正直いって、修子は遠野に隠さねばならぬことは一つもない。自分のいないあいだに部屋に入られても困ることはない。
それでも遠野に鍵を渡さなかったのは、修子の意志からである。
むろん、遠野を信用していないとか、それほど愛していないといった理由からではない。
どんなに深く結ばれていても、自分の部屋だけは自分のものにしておきたい。そこだけは自分の聖域として残しておきたい。修子が鍵を渡さなかったのは、それだけの理由からで他意はない。
しかし眞佐子などにいわせると、そんな修子の態度を冷たいという。他人ではないのだから、渡すべきではないかという。
だがそれでは、彼と彼女との平凡な関係に堕してしまう。せっかく二人で緊張した愛しい関係を保っているのに、鍵を渡した瞬間から通俗な男女のあり方に変貌してしまう。
たとえ愛していても、二人のあいだに、侵すべからざるものを一つくらいおいておきたい。男女のあいだはほどよい障壁があったほうが、新鮮で爽やかな関係を持続することができる。
こんな修子の気持を、初めは遠野も納得しかねたようである。不満そうに、「君の気持は、よくわからない……」とつぶやいたこともあった。
だがそのうち諦めたのか、それとも理解したのか、鍵を欲しいとはいわなくなった。
鍵はなくても、遠野は部屋に来たいときに自由に入ってこられる。むろんあらかじめ電話をしてからだが、それで二人の関係が崩れることはない。それどころか、ほどよい緊張関係は相変らず保たれている。
しかし正直いって、今夜のような場合はあきらかに不便である。彼が鍵を持っていないばかりに、修子も暢《の》んびりできない。
だが考えてみると、修子は今夜は初めから要介と食事をするだけのつもりであった。それを誘われるままにもう一軒行こうと思うこと自体、修子の予定変更であり、我儘である。その結果、多少のわずらわしさがおきるのは、今夜にかぎったことではない。
「それじゃ、そろそろ行きましょうか」
要介が腰を浮かしかけたのを見て、修子は慌てて首を横に振る。
「やっぱり、ここで失礼します」
「どうしてですか。さっき誘ったときは黙っていたでしょう」
「せっかくですけど、またこの次に誘って下さい」
修子が丁寧に頭を下げると、要介は不貞腐れたように椅子に背を凭《もた》せた。
「誰かが、待っているんですね」
「そんなんじゃありません、ただ一寸、用事を思い出しただけです」
「本当は、僕を避けているのでしょう」
「ご免なさい。またべつの機会にゆっくりお逢いしましょう」
執拗に問い詰められるうちに、修子は若い男の一途さが鬱陶しくなってくる。
修子が瀬田のマンションに戻ると、九時半を少し過ぎていた。
部屋に入ると、修子は指輪とイヤリングをクリスタルのバスケットに入れてから、ピンクのセーターと紺のスカートに着替え、髪にヘアーバンドをつけた。化粧は遠野がくるかもしれないのでそのままにして、湯を沸かして郵便物を見る。
湯が沸いたところでお茶を淹《い》れ、ソファに坐ってゆっくり飲みながらテレビを入れる。
そろそろ十時で、夜のニュースショウが始まる時間である。
外資系企業に勤めているせいもあって、修子は部屋にいるときはできるだけニュース番組を見る。今日一日の大きな事件が大体わかるし、外国のニュースも身近に感じる。
その点ではニュースショウは便利だが、一時間以上も続くせいか一つ一つのニュースが長すぎたり、ニュース以外のものが入ってきて興味を殺《そ》がれることもある。
途中、修子は立上ってバスルームに行き、浴槽に湯を張った。
再びソファに戻ってテレビを見ているうちに、十一時になる。
修子はもう一度、お茶を淹れ直してから遠野のことを思った。
十時ころといったが、やはり少し遅れてくるようである。こんなことなら、要介ともう一軒、飲みにいってもよかったが、いまとなっては仕方がない。
修子はテレビを消し、ジャズのピアノ曲を聴きながらロンドンにいる友人の美奈子に手紙を書きはじめる。
修子がイギリスにいるときに知り合った友達で、二年前にイギリス人と結婚した。どういうわけか、修子の誕生日にはまだ少し間があるのに、バースデーカードを送ってきたので礼状を出すことにする。
会社では社長の替りに英文で何通も手紙を書くのに、いざ私用のとなるとなかなか書けない。それをようやく書き終えて、時計を見ると、十一時半だった。
いったい、あの人はどこへ行ったのだろうか。
いままでも遅れることはあったが、そういうときは必ず電話をよこした。それがないところをみると約束を忘れたのか、それとも余程楽しいことでもあったのか。
仕事の関係のパーティだといっていたから、そのあと銀座にでもくり出したのかもしれないが、それにしても電話の一本くらいよこしてもよさそうなものである。
修子は苛立つ気持をおさえるように、サイドボードの棚からリキュールのボトルを取り出して、グラスに注ぐ。いつもは眠られぬときに、睡眠薬がわりに飲むのだが、今夜はかえって目が冴えてきそうである。
一口飲んで、また音楽に耳を傾ける。
正直いって修子は、遠野を待って苛立つ自分が好きではない。
眞佐子などは、好きな人を待っているときが楽しいというし、その気持もわからぬわけでもないが、待つのはやはり辛い。とくに修子がいやなのは、待っているうちにいろいろな想念にとりつかれ、ついにはその男を怨むようになることである。できることなら男を憎んだり怨みたくはないし、それ以上に、そんな状態に自分を追いこみたくない。
そのまま、二杯目を飲んでいると、電話のベルが鳴った。
修子は受話器を見詰め、ベルが五つ鳴ったところで取ると遠野の声が返ってきた。
「遅れて済まん、もう少し待ってくれないか」
どこかのバーにでもいるのかと思ったが、声以外に物音はしない。
「いま、どこですか」
「一寸ね。……急用があって、家に戻っている」
思いがけない返事に修子が黙っていると、遠野が声を低めていう。
「たいしたことではないんだが、あと一時間以内にはいく」
「でも、十二時を過ぎますよ」
「大丈夫だ。遅くなっても行くから、待っていてくれ」
修子は、テーブルの上のグラスを見たまま答える。
「べつに、無理しなくてもいいわ」
「そうではない、とにかく行く」
「でも……」
修子は皮肉や腹いせにいっているわけではない。パーティに出ていたのに急に家に戻ったところをみると、かなり重要な用事があったに違いない。そんなときに、約束をしているからといってまたわざわざ出てくるまでもない。
いままで修子が少し苛立っていたのは、遠野がこなかったからではなく連絡がなかったからである。本当にくるのかこないのか、わからないまま宙ぶらりんな状態にいる自分がいやで、落着かなかっただけである。
「とにかく、あとでよく話す」
自分の家のせいか、いいにくそうである。
「じゃあ、もし出られるようになったら、電話を下さい」
「そうするから、待っていてくれ」
そのあと、遠野はもう一度、「わかったね」といって電話を切った。
修子は受話器を戻してからもう一口リキュールを飲み、それからバスルームに行って鏡に向かった。
あの人がくると思って、いままで化粧を落さずにいたが、もう洗ってもよさそうである。
修子は髪をゴム輪でうしろに留め、洗面台にお湯をとる。まずクレンジングクリームで顔を拭きとり、フォームで洗い流していくうちに、少しずつ遠野の影が薄れ、素顔の修子が甦ってくる。
そのままぬるま湯で顔を洗い終ったところで、修子はようやく普通の自分に戻ったような気がして水を飲む。
修子は寝つきはいいほうである。床に入ると大抵は二、三十分で眠れるし、疲れているときはソファでテレビを見たまま仮眠《うたたね》することもある。
「君の最大の長所は、寝つきと寝起きのいいところだ……」と、遠野に皮肉まじりにいわれたこともある。
年頃の女性なら、もう少しもの思いなどに耽《ふけ》りながら眠られぬ夜を過ごすほうが、サマになるような気がするが、仕事をもっていてはそんなことをいっていられない。それに寝不足は三十を過ぎた肌には覿面《てきめん》に響くし、明日の仕事にもさしつかえる。
よく眠るのが美しさを保つ秘訣とわり切っているが、今夜だけは少し眠れない。枕元のスタンドの小さな明りだけをつけ、ブラームスのシンフォニイを聴きながら目を閉じるが、ごく自然に遠野のことが頭に浮かぶ。
電話のあと連絡がないが、本当にこれから来られるのか。
家から電話をしているせいか、遠野の話し方はいつになく歯切れが悪かった。まわりに人でもいたのか、小声で落着きがなかった。
修子はまだ、遠野の家を見たことがない。もちろん住所は知っていて、行く気になれば行けないわけではないが避けてきた。
初め、遠野を知ったときから、修子は、彼の家での生活は自分のあずかり知らぬことであり、別の世界のことだと決めてきた。したがって遠野の妻にも会ったことがない。
せいぜい、ときに洩らす遠野の言葉の端から、修子より一廻り年上の、中年の女性を想像するだけで、それ以上のことはなにもわからない。
おかげで、いま遠野のことを考えても、彼の困惑した顔が浮かんでくるだけである。
修子は寝返りをうち、枕元の時計が十二時半を示しているのをたしかめてからスタンドの明りを消す。
眠るとき、修子は明りがないほうがいいが、あとで遠野がくると闇に戸惑うかもしれない。修子はもう一度小さな明りをつけなおし、光りを遮《さえぎ》るようにスタンドの笠を傾けた。
そのまま目を閉じ、息を潜めているうちに軽く眠ったらしい。
漠然とした意識のなかでかすかな音をきき、目を覚ますと入口のチャイムが鳴っている。
修子は慌ててベッドから起き、時計を見た。
午前一時である。
チャイムはいったんとまり、今度はどんどんとドアを叩く音がする。
急いでリビングルームの明りをつけてドアを開けると、待ちかねたように遠野が飛び込んできた。
「眠っていた?」
余程急いできたのか、遠野は額に軽く汗を滲《にじ》ませ髪が少し乱れている。
「水を一杯、くれないか」
修子は冷蔵庫から冷えた麦茶をとり出してグラスに注ぐ。
「うまい」
遠野はそれを一気に飲み干すと、ソファに坐った。
「遅くなってしまった……」
「くる前に電話をくれると、いったでしょう」
「そのつもりだったけど、電話をする時間が惜しくてね」
坐った遠野の上体は軽く揺れて、少しアルコールの匂いがする。
「酔っているんですか」
「たいして、飲んでいない」
遠野は坐ったまま背広を脱ぎ、ネクタイをゆるめる。
「今日は疲れた……」
「なにか、あったのですか」
「あったあった、沢山ありすぎて、なにから説明していいかわからない」
遠野はそこでネクタイを投げ捨てると、一つ大きく溜息をつく。
「ここにきて、ようやくほっとした。もう一杯、水をくれないか」
修子が再び冷蔵庫から麦茶をとり出すと、遠野がつぶやく。
「修は本当にいい女だ、最高だよ」
「急に、どうしたんですか」
「いい女だから、いい女だといっているんだ」
「わたしは、そんないい女じゃありません」
「いや、いいよ。家《うち》の奴にくらべたら問題にならん」
どうやら、遠野は家で妻といさかいをしてきたようである。電話でいいにくそうにしていたのは、そのせいなのであろう。
「どうも、女というのはわからない」
「あなたは、一番よくわかっているんじゃありませんか」
「それがわからない。とにかく、長くいるとろくなことはない」
「………」
「まったく、どうしようもない」
遠野はそういってから、ぽつりとつぶやく。
「子供のやつが警察につかまってね」
思いがけない話に、修子は思わず坐り直す。
「ただ、仲間とバイクを飛ばしていただけらしいんだが……」
遠野には子供が二人いるが、その下の高校生の男の子のことらしい。
「警察からはすぐ帰されたんだが、悪いのはすべて俺のせいだということになってね」
争いの細かいことまではわからないが、それだけで大体の察しがつく。
「とにかく、女は興奮しだすと、いうことが無茶苦茶だ」
遠野のいうこともわかるが、彼の妻にもそれなりのいい分はあるのであろう。いずれにせよ修子が関わり合うべきことではない。
「それで大丈夫なのですか」
「とにかく、大変な夜だった」
遠野はそういうと、寝室へ行こうとする。
「駄目よ」
修子はきっぱりと首を左右に振った。
「今日は、このまま帰ったほうがいいわ」
「喧嘩をして家をとび出してきたのに、いまさら帰れるか」
「だからこそ帰ったほうがいいわ。このまま帰らないと心配されるでしょう」
「心配なんかしない、いままでだって何度も泊ってるじゃないか」
遠野はときどき少年のようになる。これが十七歳も年上の男性かと思うほど駄々をこねる。
「今夜はどんなに遅くなってもくるといったろう。ちゃんとその約束を守ってきたのだ」
たしかに遠野が約束どおりきてくれたことに修子は感謝している。とくに喧嘩をしたあとに出てくるのは、相当の勇気が必要であったに違いない。
しかしだからといって、このまま引き留めて部屋にかくまう気にはなれない。
そこまでしては、二人の争いの渦中に自ら巻きこまれることになりかねない。夫婦の争いは、あくまで夫婦のあいだで解決すべきで、他人が入りこむべき問題ではない。
遠野は好きでも、そのあたりの|けじめ《ヽヽヽ》だけはきちんとしておきたい。
「これから帰っても、むし返すだけだ」
軽く下を向いた遠野の顔は陰になって、中年の男の疲れが滲《にじ》んでいる。
「泊っても、いいだろう」
今度は、哀願するような口調になる。
「ここしか、俺の安らぐところはない」
「じゃあ、少しだけ休んで、それから帰って下さい」
「今日は朝から働きづめで、おまけに警察沙汰で疲れてるんだ、これから眠ったら何時に起きられるかわからない」
「大丈夫です、三時には起こしますから、朝になる前に帰って下さい」
「頑固な奴だ」
「わたしが頑固なのでなく、あなたが勝手なのよ」
修子はそれだけいうと、脱ぎ捨てられたままの遠野の上衣をハンガーに掛ける。
枕元の目覚まし時計の音はさほど高くはない。ゆっくりと木琴でも叩くようにやわらかな音が続く。その少し間の抜けた音をきいていると、修子は自然に目が覚める。音の高さより、そのリズムが頭に馴染んでいるようである。
目覚めたとき、時刻は三時五分すぎだった。
修子は背を向けている遠野の肩をそっと叩いた。
「時間ですよ、起きて下さい」
休む前、二人は軽く抱き合っていたはずである。
遠野は修子の額に接吻をし、パジャマの胸元を開いたが、そこまでで安心したように眠ってしまった。
それにつられて修子も目を閉じたが眠りは浅く、その大半は夢であったような気がする。
どういうわけか、少し離れた位置から遠野が呼んでいる。彼のうしろには妻がいるようだがよく見えず、見知らぬ人が前を行き来する。場所は会社の近くのようでもあり、大分前に遠野と一緒に行った京都の街角のようでもある。奇妙なことに、修子の前にはサザランド支配人が車を寄せて待っている。
そんなとりとめもない夢を見ているうちに、目覚まし時計が鳴りだしたようである。
「起きて下さい」
もう一度、肩を揺らすと、遠野はようやく気が付いたらしく、仰向けのまま二、三度、頭を振ってから目を開いた。
「もう三時ですよ」
遠野は「なあんだ……」というように顔をそむけ、それから一つ欠伸《あくび》をした。
「もう少し、眠る」
「駄目よ、少し休んだら帰る約束だったでしょう」
背を向けた遠野の肩を、修子はもう一度引き戻す。
「いまならまだ暗いから、さあ、起きて」
「放っといてくれ」
今度は遠野は蓑虫《みのむし》のように背を丸くする。
「このまま眠って、明日、会社はどうするのですか」
「ここから出て行く」
修子のところには、遠野の下着はあるが、ワイシャツやネクタイの予備はない。
「昨日のままじゃ、おかしいわ」
「かまわん……」
遠野はうるさいというように、タオルケットを目深に引き寄せる。
「やっぱり起きなきゃ駄目よ。喧嘩をしてきたのでしょう」
「だから、帰らないといっているだろう」
「そんなの卑怯よ」
「どこが、卑怯なんだ」
「だって、奥さまは家にいるのでしょう」
どのような事情にせよ、喧嘩をして自分だけ逃げ出してくるのは狷《ずる》い。
幸い、遠野は修子の部屋という逃げ場があるが、妻のほうには出ていくべき場所がないはずである。いずれにしても、男だけが一方的に逃げてくるのは身勝手というものである。
「お願いですから、今日だけは帰って下さい」
こういうときは、母親のように優しくいったほうが効き目がある。相手は分別ある大人より、ヤンチャ坊主だと思って対応したほうがよさそうである。
「あなたが、きてくれたことは嬉しいけど、今夜は帰ったほうがいいわ」
修子に訓《さと》されて、急に家のことでも思い出したのか、遠野は呆《ぼ》んやり天井を眺めている。
「喧嘩なんかしていないときに、ゆっくり逢いたいわ」
「………」
「さあ、起きて」
そのまま修子はリビングルームに行って明りをつけた。
つい二時間前、遠野が脱いだ背広とズボンが、壁の端のハンガーにぶら下っている。それをおろしてネクタイを伸ばしていると、遠野が起きてきた。
「コーヒーでも呑みますか?」
「いや、濃いお茶がいい」
修子が流しで湯を沸かすと、遠野は諦めたように服を着はじめた。
まだ眠気は覚めぬらしく、気怠《けだる》そうにワイシャツに腕を通している。
「ずっと、起きていたのか?」
「少し眠りました」
「明日、会社は大丈夫か?」
サイドボードの上の時計は、すでに三時半を示している。
「あなたが帰ったら、もう一度、眠ります」
「まだ三時間くらい、あるかな」
「すぐ、眠れたらね」
修子は微笑んでカーテンのかかっている窓を見た。
「車を呼びましょうか」
「出たら、拾えるだろう」
修子が立上ると、遠野も仕方なさそうに立上って出口へ向かったが、沓脱《くつぬ》ぎの前で振り返る。
「帰るぞ……」
「わかったわ」
修子がうなずくと、遠野の上体が近づき、顔を寄せてくる。そのまま短い接吻をして、遠野は体を離す。
「騒がせて、悪かった」
「お休みなさい」
遠野が軽く手をあげ、少しおどけたように片目をつぶる。その顔にうなずくと、ドアが外側から閉まる。
修子はなお廊下を去っていく跫音《あしおと》をきき、それが途切れたところでゆっくりと鍵をかけた。