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愛人~冬野
日期:2017-06-26 22:16  点击:443
  冬  野
 
 初冬の陽が部屋一杯に溢れている。
 暦は師走に入っているのに、仮睡《まどろ》みたくなるほどの小春日和である。
 修子はその陽だまりのなかでマニキュアを塗り続ける。
 一本一本、陽にかざしながら丁寧に塗っていく。いつもはシルバーを塗るのが、今日は淡いピンクに変えてみる。
 土曜日の午後で会社は休みだから、軽い悪戯である。
 遠野から、退院すると連絡があったのは、昨夜の七時過ぎだった。
 二日前にギプスをはずしてレントゲンを撮った結果、骨折の部分は順調に恢復《かいふく》し、足をつけて步いてもかまわないといわれた。長いあいだギプスを巻いていたので、まだ関節の動きが悪いが、それはリハビリテイションに通えば自然に治ってくる。
 医師にいわれたことを報告してから、遠野が囁《ささや》いた。
「明日、午後に退院したら、まっすぐ修の部屋に行く」
「よかったわ、おめでとう」
 思わずはずんだ声できいてみる。
「何時ごろになりますか?」
「退院の手続きがあるから、二時ごろになるかもしれない。とにかくまず君に逢いたいんだ」
 ピンクのマニキュアを塗った修子のなかに、遠野の退院を待つ気持が芽生えたことはたしかである。
 久しぶりに退院してくる彼を迎えるのだから、少し派手なマニキュアをつけてみようか。朝早く髪をブロウして黒いリボンで結び、襟元があいたサーモンピンクのブラウスに紺のスカートをはいたのも、いつもの部屋着からみると少しお洒落《しやれ》である。
 遠野の退院を控えて、気づかぬうちに修子は装っていたようである。
 マニキュアを塗り終えたとき、サイドボードの上の時計は三時に近づいていた。明るいと思った冬の陽はすでに力を失い、西の空が色づきはじめている。
 修子はコーヒーを淹《い》れてから、また遠野のことを思った。
 部屋へくるのは二時ごろになるといったが、それからすでに一時間経っている。
 約束の時間から遠野が遅れてくることには慣れていた。飲んで帰ってくるときなどは、二時間から三時間以上も遅れたことがある。
 だが今日は病院からの直行である。土曜日なので、退院の手続きは午前中に終るといっていたから、そう遅れるわけはない。
 そこまで考えて、修子は別のことに気がついた。
 もしかすると、遠野は病院から一旦、自宅に帰ったのではないか。
 昨夜、病院からまっすぐ部屋に来るといわれたので、それを鵜呑《うのみ》にしていたが、退院といっても身体だけで出てくるわけではない。一カ月近く入院したのだから、寝間着や洗面道具など身の廻りのものがあるはずである。それらをひとまず家においてから来るのなら、二時や三時は難しい。
 いや、それ以上に、一旦、家に帰ってから、また出てくることができるのか。
 普段の日ならともかく、退院した日に外出など難しい。それを承知で遠野がいったとしたら、その場の思いつきか、それとも自分を喜ばせるためにいっただけなのか。
 修子は再び時計を見、三時を過ぎているのを見届けてから、テーブルにある型録《カタログ》を手にした。
 会社では最近、新しい製品をまとめたパンフレットをつくった。修子は営業でないので、特別自社の製品について知識を求められるわけではないが、ときどき来客に尋ねられることがある。そのときのためにも、新製品の傾向くらいは知っておく必要がある。
 クリスタル製品はもちろん、皿からポット、コーヒーカップ、コンポートなど、さまざまなものが並んでいる。とくに陶磁器は色や絵柄が美しく、見ていて飽きない。最近は、本社でも東洋趣味をとり入れて、淡い紺か朱の単色のものが増えたようである。
 だが修子が陶器のなかで一番気に入っているのは、ボーンチャイナである。
 名のとおり、この陶器には牛の骨が入っているので、淡いクリーム色を呈し、人肌のような温《ぬく》もりがある。薄くて陽にかざすと、指の一本一本まで透けて見えるが、そのくせ、床に伏せて大の男がのっても割れぬほど強固である。修子のところにはすでに三枚一組の皿があるが、いま一つ直径が四十センチの大皿が欲しい。それなら食事のときはもちろん、飾りにつかうこともできる。
 美しい型録を見るうちに、修子はいっとき遠野のことを忘れた。
 再び修子が思い出したのは、陽が翳《かげ》り、初冬の冷気を覚えたからである。
 今日はこないのかもしれないと思って、ヒーターを入れるために立上ったとき、入口のチャイムが鳴った。
 修子は一旦、ドアのほうを振り返り、それから小走りに駆けて行き、ドアを開けると、遠野が立っていた。
「お帰りなさい」
 思わず声をかけてから、修子はその言葉が自然に出たことに驚いた。
「久し振りだ……」
 遠野は笑顔でうなずくと、右手に持っていた杖を軽くあげた。
「こんなものを、ついているのでね」
「大丈夫ですか」
「なくても步けるんだが、用心のためさ」
 一カ月半ぶりに見る遠野の顔は、いくらか肥って色白になったようである。ギプスを巻いたままの入院生活で、運動不足だったのかもしれない。
「いいのか?」というように、遠野は奥をうかがってから、靴を脱いだ。杖なしでも步けるが、右足は開き気味に軽く引きずっている。
「昔のままだろう」
 遠野がおどけていうのをきいて、修子は苦笑した。それくらいで、顔形が変るわけはない。
「綺麗になった」
「わたしが?」
 遠野が改めて修子を見る。
「なにかいいことでもあったのかな」
「それなら嬉しいんですけど」
「今日はとくべつ綺麗に見える」
 正面から顔を見詰められて、修子が目を伏せると、遠野の腕が伸びてきた。
「欲しかったんだ……」
 修子はまだ陽が明るいのが気になったが、遠野はかまわず唇を求めてくる。
 立ったままの抱擁をくり返して遠野は落着いたのか、腕の力をゆるめて一つ息をつく。
「ようやく逢えた……」
 それは修子も同じ思いである。
「全部で一カ月半ほど、病院にいたことになる」
 修子が一人で数えた日数も同じであった。
「長いあいだ、ご苦労さま」
「別に、仕事をしてきたわけではないから」
「でも……」
 修子としては、遠い旅から遠野が帰ってきたような気がする。
「変りはなかったか?」
「別に……」
 この間、遠野の妻や娘のことを思い、自分の立場を改めて考えた。そしてごく最近、絵里が若い恋人と少し疎遠になり、要介が新しい相手との結婚に踏み切った。それらはみな、修子に微妙な影を落したが、遠野に告げることでもなさそうである。
「久しぶりに修が淹れたうまいお茶を飲みたい。病院のはまずくて参った」
 いわれて修子がキッチンに立つと、遠野はテレビのスイッチを入れた。
「もう、入院はこりごりだ」
「入院したおかげで、早く治ったのでしょう」
「治るといっても、ギプスを巻いたままだから、どんなふうになっているのか見当がつかない。ギプスを外してレントゲンを撮るときは、神様に祈るような気持だった」
「骨がついていなかったら、退院できなかったんですね」
「ようやく刑務所を出られると思っていたのが、また戻されるようなものだから」
「でも、病室ではテレビも読書も自由だし、お仕事もできたのでしょう」
「しかし、修に逢えなかった」
 遠野の声を無視して、修子は戸棚から急須をとる。
「まったく、つまらないことで時間をつぶしたものだ」
「もう、大丈夫なのでしょう」
「折れたところを留めるのに、スクリューが一本入っているが、それは来年になってからでもとるらしい」
「また、入院するんですか」
「いや、それは外来でできるといっていた」
 修子がお盆に茶碗をのせて持っていくと、遠野が怪我をした足を指さした。
「見るか?」
 修子は目をそむけたが、遠野はズボンをまくりあげて右足をソファの上に投げ出した。
「こんなに痩せてしまった」
 下腿《かたい》から足首のあたりは肉がそげ落ち、皮膚は黒光りして触ると剥《は》げてきそうである。
「ギプスのなかに入れたままだったから……。人間の足はやはりつかわなければ駄目だ」
「そこに、釘が入っているのですか」
 足首の外側の踝《くるぶし》のまわりに、五センチほどの弓なりの傷痕がある。
「触ってみる?」
 いわれて修子はそろそろと踝のまわりに触れてみた。
 見た目には腫《は》れているようだが、触ってみると熱はない。
「痛くないんですか」
「大丈夫さ……」
 遠野は自分で軽くつついてみせてから、傷痕に触れている修子の手に、自分の手を重ねた。
「病院で、こうして触ってもらいたかった」
「………」
「どうして、こなかったのだ?」
 修子が答えないでいると、遠野がさらに強く握った。
「毎日、待っていたんだぞ」
 修子が顔を背《そむ》けると、遠野が耳元で囁く。
「ベッドに行こう」
 修子は傷口から手を離して、別のことをきいた。
「今日はまっすぐ、病院からきたのですか」
「もちろんさ、どうして?」
「一旦、お家に寄ってくるのかと思ったから」
「まっすぐ来るといったろう」
「でも、荷物は?」
「それは別便で、送ってもらうことにした」
「じゃあ、お家にはまだ……」
 遠野がうなずくのを見て、修子はかえって不安になった。
「帰らなくて、いいのですか?」
 遠野は黙ったまま煙草に火をつけた。ベランダからの陽を受けて、煙草を持った遠野の手が、テーブルの上に長い影を落している。
「入院中に、いろいろなことを考えた……」
 遠くを見る目になって、遠野がつぶやく。
「仕事のことや家のことや、君のことも……」
 遠野はそこで少し間をおいてから、言葉を選ぶようにいった。
「やっぱり、いまのままでは無理だということがわかった」
「………」
「これからはずっと修と一緒にいる」
「冗談はいわないで」
「冗談ではない、本気だ、もう決めたんだ」
 少年のように光っている遠野の目を見ながら修子があとずさりすると、さらに遠野が追ってくる。
「今日の日を待っていたんだ」
 長い入院による禁欲生活で、遠野は燃えているようである。
「待って……」
 修子は少年を宥《なだ》めるようにいうと、先にベッドルームに入った。
 白いレースのかかったベッドには、すでに短日の夕暮れが忍びこんでいる。修子はカバーを取り除き、壁に掛っていたネグリジェを除いた。遠野が入院しているあいだ、枕は一つであったが、久し振りに彼のために高めの枕を並べる。
「修の匂いがする」
 部屋に入ってくると、遠野は獣のようにあたりを見廻す。
「休もう」
「足は大丈夫なのですか?」
「もちろん、足首以外はどこも悪くないんだ」
 遠野が照れたように笑ってシャツのボタンをはずす。修子はレースのカーテンの上にさらに厚いカーテンを重ねるが、部屋にはまだ夕暮れの明るさが部屋に残っている。
「久しぶりに、修の美しい体を見たい」
「………」
「今日ははっきり見たいんだ」
 遠野のねだる声をききながら、修子は獣に|凌 辱《りようじよく》される自分を感じていた。
 
 気が付くと短い日はすでに暮れて、あたりは夜になっていた。
 ずいぶん時間が経ったような気がしたが、枕元の時計を見ると六時である。
 二人がベッドに入ったのは四時前だったから、まだ二時間少ししか経っていない。
 だが休む前、カーテンの端から洩れていた夕暮れの明りはすでになく、闇の中で天井と壁の白い部分だけがかすかに浮き出ている。
 日の短い夕暮れどきに眠ったことが、長い時間経ったような錯覚を与えるようである。
 闇に馴染むように、修子はしばらく目を宙に遊ばせてから上体を起こした。
 隣りで、遠野が軽く背を向けたまま眠っている。
 一カ月以上も逢えなかったせいか、遠野の求め方は激しかった。その性急さに修子は戸惑いながら、いつか彼のペースに巻き込まれ、最後はいつものように満たされた。
 そのまま、修子はしばらく遠野の胸のなかで眠ったようである。
 もっとも目覚めたとき、修子は足だけ触れたまま、遠野とは少し離れていた。一カ月半ぶりに男の胸のなかに閉じ込められて、息苦しかったのかもしれない。
 闇のなかでそろそろと起き出しながら、修子は下着をまさぐる。休む前はスリップもブラジャーもつけていたのが、いまは身につけているものはなにもない。
 遠野が強引に脱がせたのだが、それがベッドのなかで散乱している。
 修子はそれらをまとめて手にすると、寝室の片隅で身につけ、リビングルームへ戻った。
 夏の日の六時はまだ宵の口なのに、初冬のいまは完全に暮れている。それでもベランダから見える街の明りは活気があり、夜がまだはじまったばかりであることがわかる。
 修子はバスルームでシャワーを浴びてから髪を整えた。
 一カ月半ぶりに抱かれて、体は懈《だる》いが、肌は潤ったようである。
 愛を受け入れることで変る自分の体を、修子はあまり好きではない。できることなら、そういう行為とは無関係に美しくありたい。
 だが修子の考えている以上に、体は正直らしい。
 久しぶりの愛撫に翻弄されて、いままで淀んでいた血が軽快に流れはじめたようである。
 遠野の行為は飢えた獣のように荒々しかったが、修子のなかにも、それを求める気持が潜んでいたのかもしれない。そんな自分が少し嫌だと思いながら、いまはさほど怨んでもいない。
 軽く化粧を終えたところで、修子はキッチンに立ち、二人分のコーヒーを淹れた。
 遠野はまだ休んでいるようである。修子はかまわず一人でコーヒーを飲みながら、休む前に遠野がいったことを思い出す。
「いまのままでは無理だ」といい、「これからはずっと一緒にいる」といいだしたが、あれは本当なのか。これまでもその種のことは何度かきかされているが、今夜のように真剣に訴えたのは初めてである。
 もちろん、そのことはいずれたしかめなければならないが、それよりまず気になるのは、退院したあと、病院からまっ直ぐこちらへきたことである。
 いずれこちらへ来るとしても、退院したらまず自宅へ戻るものだと思っていた。それは夫なら当然の行為であり、務めでもある。
 それを無視してこちらへ来たのは、余程、決心してのことなのか。
 退院した日に家に帰らぬのは、家庭と妻に対する公然たる挑戦である。
 もし遠野のいったとおりだとすると、「別れたい」といわれた妻はいまごろなにを考え、なにをしようとしているのか。そして、あの遠野の妻によく似た娘はなにを思っているのか。
 考えるうちに修子は不安になり、寝室のドアをそっと開けてみた。
 瞬間、明りが部屋に流れこみ、その光りを避けるように遠野は顔をそむけ、それからゆっくりと目をあけた。
「起きたのか……」
 自分がこれだけ心配しているというのに暢気《のんき》な人である。修子は乱れたベッドの端を直しながら近寄る。
「もう、七時ですよ」
 遠野は時間の経過を反芻《はんすう》するように宙を見てから、一つ伸びをした。
「久し振りに、よく眠った。やっぱり馴染んだベッドは気持がいい」
「鼾《いびき》をかいていましたよ」
「少し暴れすぎた」
 遠野はそういうと、枕元に立っている修子のスカートの端を軽く引いた。
「もう、着てしまったのか……」
「さあ、起きましょう」
 夜に入ったばかりの時間に起こすのは奇妙だと思いながら、修子はブランケットの端を持上げた。
 遠野が起きてきたのは、それから十分あとだった。ズボンをはいているが、シャツは手に持ったままである。
「パジャマが欲しいんだけど……」
 修子は暖房を少し強くしてから答えた。
「もう、起きたのですから、いらないでしょう」
「しかし、部屋にいるあいだはパジャマのほうが楽だ」
 そのまま、遠野はソファに坐る。
「そういえばお腹が減った。食事にでも行こうか」
 修子は呆れて、きき返した。
「帰らないのですか?」
「どこへ?」
「お家へに決っているでしょう」
 家庭でどんな争いがあるのか知らないが、退院した日くらいはまっ直ぐ家へ戻るべきである。
「みな、お待ちになっているでしょう」
 遠野は答えず、コーヒーをブラックのまま飲む。
「今日、退院したことはご存知なんでしょう」
「もう、帰ってこないほうがいいと思っているかもしれない」
「そんなことないわ」
 修子は大阪の病院で見た、遠野の娘の顔を思い出した。妻はともかく、あの髪をうしろに束ねた娘だけは、父の帰りを待っているに違いない。
「病院はお昼に出たのに、夜になっても帰らないなんて可笑《おか》しいわ。どこに行っているか、いまごろ探しているわよ」
「ここにいることは、知っている」
「どうしてですか?」
「もう、俺達のことはわかっている」
 重大なことをいっているのに、遠野の表情は呆れるほど暢んびりしている。
「病院で、修に書いた手紙を読まれた」
「誰に?」
「書きかけたまま、枕頭《ちんとう》台の抽斗《ひきだし》に入れてあったのを、ワイフがきて読んだ」
「なぜ、そんなことを……」
「君がきてくれないからだ」
「でも、そんな大事なものを……」
「迂闊だった……しかし読んでもらって、かえってさっぱりした」
 遠野は照れ臭さを隠すように、かすかに笑った。
「その手紙、いただいてないわ」
「もちろん、そのまま捨ててしまった」
「なにが、書いてあったんですか」
「修を好きだってことを、いろいろと。あれを読んだら誰でも諦める」
 そんなことがあったとは、修子は知るわけもない。
「悪いわ……」
「悪い?」
「奥さまに」
「いつか、はっきりさせねばならなかったことが、少し早まっただけだ」
 遠野は一つ咳払いをすると、自分にいいきかせるようにいった。
「これでいいんだ……」
 二人が黙ると、急に暖房の音が甦る。
 いま、いろいろなことを考えなければならないと思いながら、修子の頭の中は混乱しているようである。そのまま冷えたコーヒーを眺めていると、遠野がいった。
「結婚しよう」
 咄嗟《とつさ》に答えかねていると、今度はもっと優しい声でいった。
「俺達、一緒になろう」
 遠野の声が耳元で囁き、彼の手が肩にのせられる。
 瞬間、修子はバネ人形のように遠野から離れた。
「駄目よ、そんなこと……」
「俺はもう決めたんだ、それはワイフも知っている」
「でも、まだはっきりいったわけではないのでしょう」
「電話でいった」
「それで……」
「黙っていたけど……」
 修子は立上ると寝室へ行き、洋箪笥から遠野のジャケットを取り出した。
「これを着て、帰って下さい」
「これから帰って、どうするのだ」
「いろいろ奥さまとお話ししたほうがいいわ」
「もう充分話して、話すことはない」
「そんなことはないわ。あなたはまだ本当に奥さまの気持をきいていないでしょう」
「そんなことをきいても、俺の気持は変らない」
「あなたは我儘よ、身勝手で無茶苦茶よ」
「修のためにやったのに、どうして我儘で無茶苦茶なのだ」
「いいから、とにかく今日は帰って……」
 修子は遠野にジャケットをおしつける。
「修は喜んでくれると思った」
「お願いですから、早く……」
 わけがわからぬという顔で、遠野は修子を見ていたが、やがて静かに立上った。
「本当に、帰ったほうがいいのか?」
「………」
「せっかく、一緒になれるというのに……」
 目を伏せたまま修子はゆっくりと首を横に振った。
 いま、遠野がいなくなったほうがいいとか、一緒になりたいなどといっているわけではない。そんなことよりまず独りになりたい。独りになって、いろいろ考えてみなければならないことがありすぎる。
「帰ったほうがいいのか?」
 再び念をおし、修子がうなずくと、遠野はジャケットに腕をとおした。
「修はどう思っていても、俺は彼女とは別れる。……いいだろう」
 そうきかれても、修子に答える言葉はない。
「寒そうだな」
 遠野はベランダへ行き、外を眺めている。
「車を呼んでくれないか」
「いまの時間は、角まで行けば拾えます」
「足がね……」
 修子はそこで、遠野が足を怪我して、退院してきたばかりであることに気が付いた。
 慌てて電話をすると、車は五、六分でくるという。
 それを伝えると、遠野は立ったままうなずいた。
「とにかく、俺はそのつもりですすめるから、修もその覚悟でいてくれ」
 遠野の言葉をききながら、修子はまるで他人の話をきいているような気がしていた。
「入院して、かえって踏ん切りがついてよかった。これから俺達はいつも一緒に暮せる」
 再び遠野が近付いてくる。また肩に手を伸ばし、抱きしめられそうである。
 修子は怯えたように身を退きながら、つぶやいた。
「もう、車が来ます」
「まだだ」
「いいえ、来ます」
 修子が首を左右に振ると、遠野が肩口に顔を寄せる。
「なにを、恐がっているんだ」
「………」
「恐いことなんか、なにもないよ」
 静まり返った夜の部屋で、遠野の声が悪魔の囁きのように聞こえる。
 

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