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かげろう絵図(上)~こちらの人々
日期:2017-06-27 09:04  点击:294
   こちらの人々
 
 
「六兵衛が参ったと?」
 と又左衛門は急に明るい眉をした。
「ここへ通せ、いいところに来た、ここへ通せ」
 言葉にも、弾《はず》みが出ていた。
 六兵衛は庭から廻って姿を見せた。いつも丁寧な男で、座敷にいる又左衛門に向って、地に膝を突いた。
「殿様。ご機嫌よろしゅうございます」
「うむ、まあ、上れ」
 又左衛門は快活に云った。
「丁度よかった。今日は待ち人ばかり来る。おぬしにも、珍しいひとがここにいる」
「おや、これは、お縫さま」
 と六兵衛は坐っている縫に云った。
「お久しぶりでございます。ただ今、吾平さんからお前さまの見えていることを聞きましたので、よろこんでいたところでございます」
 縫が微笑して頭を下げた。
「そのことだ」
 と又左衛門がひき取った。
「まず、ここに上れ」
 ご免下さいまし、と六兵衛は羽織の下で端折っている裾を下ろした。懐から板のようにたたんだ手拭いを出して、着物の埃を入念に叩き、遠慮そうに上って、座敷の隅に畏った。
「六兵衛、聞いたか?」
 と又左衛門が云った。
「縫のことだ、花見の一件で、菊川の部屋附になったそうだ」
「承っております」
 と六兵衛はお辞儀をした。
「お文《ふみ》の奴が申しました。お女中方は羨ましがっているそうでございます。なにしろ菊川さまと申せば、お美代の方様の第一の気に入り、まず家老格というところでございましょう。その方の部屋附となれば、とりも直さず、お美代の方様の歴とした幕内でございます。これは、万事都合がよくなったとひとりで喜んでいたところでございます」
「そうだ」
 又左衛門はうなずいた。
「おれも、彼女《これ》に気合を入れているところだ。これからは探索も容易になり、いろいろと|ため《ヽヽ》になる聞込みも多くなろうというものだ。おぬしも、お文にしっかりするよう云って貰わねばならぬ」
 文というのは六兵衛の妹で、長局に出入りする小間物屋の女あるじであった。
「そりゃア、もう」
 と六兵衛は力を入れて首をたてにふった。
「おっしゃるまでもないことでございます」
「ところで、長局に出た幽霊の一件、聞いたか?」
「へえ、お文から聞きました。世間にはまだ洩れねえが、お局では大そうな評判だそうで」
 六兵衛は、又左衛門と縫とを等分に見た。
「殿様。坊主め、いよいよ増長して参りましたな」
「ほう」
 と又左衛門が感心した顔を六兵衛に向けた。
「襠《うちかけ》の化物が、坊主と気づいたのは、さすがじゃ」
「女の衣裳と坊主とは昔からの因縁でございます。なに、これは加持祈祷を看板のお題目坊主のことでございますがね」
 六兵衛は笑いもせずに云った。
「しかし、坊主が長局に入《へえ》って来る。まさかご通行勝手のお切手が新しく下《さが》った訳じゃあるめえし、こりゃどういう手順でございましょうね?」
「そこじゃ」
 と又左衛門は膝を動かした。
「何か計略《からくり》がある。これ一つでも、奴らの尻尾を押える決め手になるわ。それも縫に探らせようとしている一つじゃ」
「お縫さまにね」
 六兵衛は縫の姿を見て、初めて浮かぬ色をした。この場所で莨《たばこ》がのめるものなら、一服喫いながら思案顔するところであった。
「そりゃアあまり、お急《せ》きにならぬ方がよろしいようでございますが」
 と、やがてぽつりと云った。
「うむ」
「相手もさるものでございます。お縫さまがお美代の方様にお近づきになったとはいえ、まだ|しん《ヽヽ》から心をゆるしているとは思われません。功を急ぐのあまり、ちょくちょく手出しをすると、かえってこちらの細工を見破られねえとも限りません」
「うむ」
 今度は又左衛門が考える番であった。彼は腕を組んで、
「大事をとるのはよいが」
 と重い声で云った。
「逡巡して、時機を失してはならぬ。こういうことはやはり勇気と決断が要るでな」
 と、黙っている縫に半分は聞かせるように云った。
「すると、殿様」
 と六兵衛は低い声で訊いた。
「芝口の方でお急ぎになりますので?」
 芝口一丁目は寺社奉行脇坂淡路守安董の上屋敷であった。
 又左衛門は、そうだとも違うとも云わない。ただ瞳を重く据えていた。
「左様でございますか」
 と六兵衛も声を沈めて云った。
「けれど、これは、あんまり駈け足にならねえ方が安心だと思いますがね」
「六兵衛」
「へえ」
「あまり猶予はならぬのだ。云っておきたいことは、われわれは大奥女中の風儀を直すのが目的ではないのだ。もっと、その背後《うしろ》の、巨きな怪物の陰謀を仕止めるのが、本当の狙いとだけ申そう。いや、その方にも今はこれだけしか云えないが……」
 又左衛門は云った。
「六兵衛。歯に衣《きぬ》をきせたような云い方で納得出来ぬだろうが、これは察してくれ」
「へえ、そりゃ……」
 六兵衛は明るい顔で答えた。
「承知の上でございます。いえ、承知と云っちゃ口幅《くちはば》ってえ。あっしは、芝口の殿様からお声がかかった時から、理屈抜きにしております」
「うむ、うむ」
「あっしの親父の時から、脇坂様のご先代様には大そうお眼をかけられました。また、ご当代になって、前《さき》に寺社をお勤めになされましたときにご普請《ふしん》方にお働き下さって、お城の出入りが叶《かな》いました。当節、何でも賄賂《わいろ》の袖の下のと小判がものを云うとき、手前からお願いもせぬのに、そのご恩をうけました。普通のお方では出来ぬことでございます」
「そうだ」
 と又左衛門はうなずいた。
「脇坂殿は立派なお仁《ひと》じゃ」
「手前がご恩をうけたから、お讃《ほ》め申し上げる訳じゃございませんが、全く今どき珍しいお殿さまでございます。その証拠は、何よりも世間がよく知って居ります。寺社にご再役遊ばされたときは、前の手なみを存じ上げて居りますから、また出たと坊主びっくり貂《てん》の皮、だの、輪違いは間違い坊主の疝気《せんき》筋、などと囃《はや》しております。脇坂様のお槍の投げ皮や、ご定紋のご威光を江戸で誰も知らぬ者がございません。あっしは、それを聞くごとにうれしくって……」
「聴いた。何度も、そなたから聴いている」
「いくら殿様にお話ししても、あっしの気持は足りねえくれえでございます。ですから、脇坂の殿様から頼むと仰せられたら、あっしゃもう、理屈抜きに水火の中にとび込むつもりでおります。万事は、島田の殿様のご下知をうけるように申しつけられましてからは、こうして訳も分らずに殿様のところへお出入りするような次第で。黙ってお指図をうければよかったものをつい、出過ぎた口を利いたようでございます」
「いや」
 と又左衛門は誠実な表情で遮った。
「そなたの気持はよく分っている。脇坂どのが申されたような男だ。わしにも、それは分っている」
「恐れ入ります」
「寺社奉行には、町奉行と違って、探索方の部下が無い。何を探るにも、これは眼も手足も無いと同然じゃ。これは苦しいぞ。そこで前々より気持を知って貰っているわれらにご相談があった。俺も血が燃えたものじゃ。はははは。偏屈者といわれているが、こんなことになると身体中が勇み出すのじゃ。片棒を買って出たよ。先祖は三河者だが、おれは江戸っ子だとほめてくれ」
 島田又左衛門の云う通り寺社奉行には検挙に当る直属の部下が無い。
 職務は諸国の社寺の神官僧侶の進退、寺社の領地及びその訴訟を審理する役で、自邸が役所であった。そこにいて訴訟を聴くのである。
 南北両町奉行には、いわゆる町方と称して与力《よりき》、同心があり、その下には小者《こもの》がつく。これが岡っ引とか目明しとかいう連中である。しかし、彼らは、寺社奉行の許諾なしには、寺社の領内に踏み込むことは出来なかった。
 つまり、寺や神社に限って、町方の探索からは治外法権であったが、さりとて寺社奉行には探索専門の部下が無いのであった。町方でいう与力や同心、岡っ引などに当る配下を持たないのだ。
 脇坂淡路守安董がいかに俊英でも、手足となって働いてくれる部下が無いでは、坊主の監察も行き届かないのが道理である。検挙に当っては、寺社から町奉行に頼んで与力や同心を頼むのだが、これでは徹底した査察は出来かねる。
 それでも、脇坂安董は前任のときはよく勤めて谷中の延命院一件を片づけた。今度の再勤で世間は彼の手腕に期待しているが、脇坂自身は前の経験から、部下に優秀な探索方を持つ必要を痛感している。
 しかも、この度の中山智泉院と雑司ヶ谷の感応寺はお美代の方の実父が住職であり、家斉はじめ大奥女中が挙《こぞ》って帰依《きえ》している。大奥女中が代参にこと寄せて、感応寺の坊主とよからぬ所業に耽っている噂は高いが、淡路守は慎重であった。
 もともと、大奥女中の不行跡は前々からあって珍しいことではない。絵島生島の一件は世に喧伝されたが、今の言葉でいえば、これもたまたま露われた氷山の一角であった。
 大奥女中が公然と外出する機会は、お寺詣りよりほかにない。きびしい制度と、華麗な檻《おり》の中に閉じこめられて、抑圧された女たちの欲望が、これも女人を断った寺院の僧侶と結びついたのは、皮肉な天の配剤とも考えられる。
 歴代の寺社奉行は、大奥女中と坊主の関係を知ってはいたが、見て見ぬふりをしてきた。うかつに手を出すと、大奥からの攻撃で己の地位が危いからだ。一体寺社奉行というのは、官僚の出世街道の一つで、これから若年寄、老中と昇進するのである。誰でも、出世の中途でキズをうけるのは厭である。
 しかるに脇坂安董ひとりはそうでない。彼は再勤を好機として、恐れ気もなく大奥の風儀を摘発しようと非常な決心をしている。彼は今度が二度目だから、まるで大奥女中と坊主退治に生れてきたような男であった。
 が、さて、大奥にしても寺にしても、探索に直属の部下を持たない彼は、どのような手段を考えついたか……?
「六兵衛」
 と又左衛門は云った。
「今日の縫の宿下りを幸い、脇坂殿にいろいろと耳に入れなければならぬ。今後の方針もある。一度、伺って見たいと思うが、芝口では、ちと人目に困るな」
 芝口は脇坂の上屋敷であり、寺社奉行としての役所である。縫を連れて行ったのでは、何かと目立って都合が悪いというのだ。
「そのことなら」
 と六兵衛は云った。
「ご心配はいりません。脇坂様は、昨夜から築地にお越しでございます」
「なに、下屋敷に居られるか?」
「へえ。今朝、ご家来衆から承りました」
「そりゃ好都合だ」
 又左衛門は手を拍たんばかりだった。
「下屋敷なら万事隠密に話せる。縫」
 と黙っている縫に云った。
「そちも参るのじゃ。何分のお指図もあろう。しっかりするのだ」
「はい」
 縫はかすかにうなずいた。
「六兵衛」
「へえ」
「済まぬが、その辺で町駕籠を傭ってくれぬか?」
「へえ、畏りました」
「吾平。吾平」
 と又左衛門は呼び立てた。
「他出するのだ。支度をしてくれ」
 女気の無い屋敷なので、吾平が器用に世話を焼いている。縫が手伝いに起ち上ろうとするのを、
「構わぬ」
 と云って又左衛門は別間に足早に行った。
「お縫さま」
 六兵衛が坐っている縫に云った。
「大変なお役でございますなア」
 と、つくづく見て、
「手前もお城普請の出入りで、大奥の御様子は垣間《かいま》見たりして、世間の人間より知って居りますが、いや、この眼で見ているだけに、お縫さまのご苦労がお察し出来ます。けれど、お縫さま」
 六兵衛は、強い眼で見た。
「どんなことがあっても、お命を捨てるなどというような了簡は起さぬことでございます。ここの殿様や、脇坂様の御用をおつとめになるのは結構ですが、そのために己の命を失うのは……」
 と次に云った言葉も強かった。
「……ばかの骨頂でございます」
 六兵衛の凝視には、何かの不安が縫の身体から黒い炎のように昇っていると映ったかもしれない。
 六兵衛はそれだけ云って町駕籠を探しに外へ出た。
 
 落合久蔵は、まだ、島田又左衛門の屋敷の前で頑張っていた。
 かれこれ、もう一|刻《とき》(二時間)近くなる。しかし、久蔵は飽きもしないで、うろうろして、門のあたりを見張っていた。
 彼は、この屋敷の主、島田又左衛門が何者であるか、その素姓について知っていなかった。いや、先刻までは、その知識が無かったというのが正確である。
 ところが、久蔵がこうしている間、つい、さっきだったが、又左衛門の隣屋敷から小者《こもの》がひとり用あり気に出て来た。
 久蔵は、とっさに思案をきめて、この小者に問い質《ただ》した。
「卒爾《そつじ》ながら、少々訊きたいが」
 と彼は出来るだけ愛想笑いを泛《うか》べて、やさしく云った。こういうときの要領を彼は知っていた。
「この島田又左衛門なる御仁は、どういうご身分の方か存じているなら教えてくれぬか。いや、実は友だちから事情あって頼まれてな」
 久蔵は、そう云いながら、小者の懐に一朱銀を捻《ね》じ込んだ。
 小者は、中年男だったが、にわかに相好を崩した。
「島田さまは、もと御廊下番頭で七百石の御知行とりでございます」
 七百石なら大した旗本である。久蔵のような微禄とは異っていた。なるほど、荒れてはいるが、大きな屋敷だと思った。
「もと、御廊下番頭だったのか?」
「へえ。それが、何でも西丸老中の林肥後守様のお気に合わずに、お役を召し上げられたそうでございます。いえ、これは人の噂で。へえ」
 人の噂といっているが、多分は彼の主人からでも聞いたに違いない。その証拠に、この小者は別れ際にこんなことを云った。
「旦那の前ですが、ここの殿様は、少々変り者でしてね。お役をお辞《や》めになったのも、その偏屈が祟《たた》ったということでさ」
 どうやら、隣屋敷同士はうまくいっていないらしい。
 それはいいとして、久蔵の顔が急にけわしく変化したのは、島田又左衛門なるこの家の主が、西丸老中林肥後守に睨まれた男だと知ってからである。
 それまで、目をつけた大奥女中が出て来るのをぼんやり待っていたような彼の顔が、ひきしまった表情になった。眼つきも、何かを考えていそうな深いものになったのだ。
 一刻も、他人の門前にぶらついて待っている辛抱は容易ではない。しかし、それを我慢させたのは、久蔵が島田の経歴の知識を得てからだった。
 ──やっと、島田の屋敷から人が出てきた。
 誰か出て来たので、落合久蔵は、いそいで身を退《ひ》いた。生憎《あいにく》と長い塀ばかりつづいている場所なので、遮蔽《しやへい》物が無い。仕方がないので、さり気なく寺の方へ、それも出来るだけ塀の下を歩いた。
 五、六歩、歩いてふり返って見ると、すたすたと向うに歩いているのは、先刻遇った、神田の鳶の親方の六兵衛だった。
 六兵衛が島田の屋敷に入ったのは見たが、今度は、そこから出て、何処かに行くらしいのである。
 久蔵は、立ち止って見ていたが、
(島田又左衛門と、六兵衛とは、どういう関係だろうか?)
 と思った。
 六兵衛はお城出入りの屋根直しで、久蔵も彼から挨拶を受けるほどよく知っている。律義な男で、職人たちに睨みを利かせている。
 その六兵衛が、何で島田の屋敷に出入りするのか、見当がつかなかった。
 それから、さらに彼が疑問なのは、あの大奥づとめの女中であった。顔には見覚えがあった。
 去る吹上の花見の際には、久蔵も添番として、吹上の警固に当った。当日は平常の御門番は退けられて、大奥から伊賀者と添番とが代って警戒するのである。
 花見の時は、お供として御庭に入った重臣以外は、男子の見物は禁じられている。しかし、内密は、張られた幔幕の隙間から、覗き見することは黙認されていた。久蔵も、その一人である。
 何分、花よりも、その下に群れならぶ大奥の女どもの華麗さに肝を奪われていると、思いがけない珍事が持ち上った。云うまでもなく、御中臈多喜の方の転倒であった。
 その禍《わざわい》となった踏台を多喜の方にすすめた女中の顔に見覚えがある。それがさきほど、鼠坂のあたりで見かけ、今は島田又左衛門の屋敷の内に入っている若い女なのだ。
 久蔵は、今までは、その女が出て来るのを待っていた。待つだけの理由が彼にはあったのだ。
 が、島田又左衛門の素姓を聞いてから、久蔵の考えは少し異って来た。今までは、その大奥女中だけを考えていたのだが、今度は、島田又左衛門との間を考えはじめたのである。それはさらに神田の六兵衛との関係にひろがっていた。
(はてな)
 腕をくんで考えながら佇《たたず》んで、屋敷から人が出てくるのを待っていたというのが落合久蔵のこれまでの様子であった。久蔵は目はしこい男だと仲間からも云われていた。
 明るい陽は、相変らずこの屋敷町に落ちている、久蔵の眼が、ふと我にかえった。
 向うから六兵衛が町駕籠屋を連れて帰ってくる。駕籠は二挺であった。
「駕籠が参りました」
 と六兵衛が戻ったとき、又左衛門も外出の支度が出来て待っていた。
「ご苦労だった」
 又左衛門が縫に、
「それでは参ろうか」
 と云うと、縫も起ち上った。
「ちょっとお待ち下さいまし」
 六兵衛が制《と》めた。
「いま、妙な奴が表にうろついておりますから、手前が話をして参ります」
「妙な奴?」
 又左衛門が怪訝《けげん》な眼をした。
「どういう男だな?」
「なに、お城勤めの添番で落合様というご仁ですがね。どういうつもりか、手前がここに参る時から、ご門の前に立っておりました。今も、まだそこに居りましたので、ちょっと妙に気にかかります」
「何をやっているのだ?」
「当人は、寺詣りの帰りで誰かを待ち合せていると云っていましたがね。もう、一刻にもなるのに、同じ所にうろうろしております」
「おれの屋敷をうかがっているのか?」
 又左衛門が眼を光らせて云った。
「どんなものでございましょう」
 六兵衛も確かな判断はつかないようだった。
「とにかく、妙なご仁でございます。なに、大したお方ではございません。手前も普請の御用場では、ちょいちょいお顔を見かけておりますので、知らない人ではありません。少し狡《ずる》いところがあるので、添番のお仲間うちの評判は、あまり好い方ではないようでございます」
「どういうのだろう?」
 と又左衛門が云ったのは、その落合という添番の挙動のことである。
「何か嗅《か》ぎつけて参ったのかな?」
「まさか」
 と六兵衛は打ち消した。
「そんな気遣いはございますまい。第一、それだったら筋合が違います。添番衆がそんな探りを云いつかる訳がございませんからな」
「それはそうだ」
 又左衛門はその意見に賛成した。
「やはり、人を待ち合せているのかな」
「けれど、用心に越したことはございません」
 六兵衛は云った。
「万一、お駕籠のあとをつけて参るようなことがあってはなりませんから、手前が何とか捌《さば》いて参ります」
「駕籠のあとをつけて来ると?」
「万一でございます。そんなことはございますまいが、用心のため念を入れるのでございます」
 空《から》の町駕籠が二挺、島田又左衛門の邸の前に下りている。客を待っている駕籠かきが、棒鼻にもたれたり、しゃがんだりして、煙管《きせる》をくわえていた。
 落合久蔵は、乗る筈の客がしばらく出て来ないものと見て、駕籠かきのところに近づこうとした。誰が乗るのか分らない。しかし、一つは、あの大奥女中であることは確かのようだった。
 駕籠かきから、行先を訊き出そうというのが彼の目的である。彼はまっすぐに歩き出した。
 すると、急に裏門が開いて、人影がいそいで出てきた。それを見て、久蔵の歩いている足が、ぎょっとなって停った。その人物が、たった今、駕籠屋を呼んで来たばかりの六兵衛なのである。
 悪い男が出た。久蔵は駕籠屋の方へ行くのを止めて踵《きびす》をかえした。知らぬ顔をして、ぶらぶらと寺の方に引返す。
 背中に草履を踏む音が近づいた。六兵衛だ、と思ったとき、
「落合様」
 果して六兵衛の声が呼びとめた。
 仕方がないので久蔵がふりかえると、六兵衛の顔が愛想笑いをしていた。
「おや、まだ此処でお友達をお待ちでございますか」
 いかにも気の永い人だといわんばかりに、じろじろと見た。
「うむ」
 久蔵は顔をしかめた。咄嗟のことで、怪しまれてはならぬという気持で、思わず、
「いや、もう、そろそろ帰ろうと思っていたところだ」
 と弁解めいて答えると、六兵衛はその言葉尻を掴まえるように云った。
「左様でございますか。そうでしょうとも。未だにお越しがないところをみると、ご先方にご都合が出来たのでございましょう。ああ、そうだ、落合様のお宅は四谷でございましたね?」
 何を云い出すかと思うと、
「手前も、丁度、途中まで用事がございますので、ご迷惑でなかったら、お供したいと存じますが」
 久蔵が答えに窮していると、
「ここで落合様と道づれになろうとは存じませんでした。ありがとう存じます。それでは、ご一緒に参りましょう。今日はいいお天気でございますね」
 六兵衛は久蔵を引き立てるように歩き出した。久蔵は自分が胡散《うさん》な行動をとってきただけに、断る理由を失った。
 彼は苦虫を噛んだような顔で、不承不承、六兵衛と歩いたが、途中でふりかえって見ると、駕籠には、三十くらいの士《さむらい》と、あの大奥女中とが今や乗り込んでいるところであった。
 久蔵は駆け戻りたくなるのをこらえて、六兵衛の存在を呪った。
 
 又左衛門と縫を乗せた駕籠が、築地の脇坂淡路守の下屋敷に着いたのは、陽が傾きかけたころであった。
 用人に会って、又左衛門が淡路守の都合を訊くと、奥に入って取り次いでいたが、出て来て、
「主人がこちらへと申しております」
 と庭を廻って案内してくれた。
 下屋敷だから、くつろいだ設計になっている。広大な泉水があって、石組みも見事である。築山から池の上に、鶴亀になぞらえた枝ぶりの松がさしのぞいていた。
「どうぞ」
 と導かれたのが、この景色を木立ちで遮断した、狭い露地の奥の茶室であった。寂《さ》びた簣戸《きど》から入って、躪《にじ》り口にまわるのに気づいたことだが、この藁ぶき屋根の茶室が、全く屋敷の内でも孤立していることだった。つまり、どの建物からも交通が出来ない仕組みになっていた。山間の山家になぞらえた古風をそのままに、植込みの樹林の中にあった。
「申し上げます。ご案内いたしました」
 躪り口の外から用人が手をつかえて云うと、
「これへ」
 と内から返事があった。主人の淡路守安董の声である。
 又左衛門は、淡路守の早いのにおどろいた。面会を申し入れて、どれほども経っていない。用人はそのまま帰って行った。
 又左衛門は作法通りに手水《ちようず》をつかい、躪り口から入った。縫もうしろにつづく。内部は四畳台目という狭いものである。
 淡路守は左隅の炉の前に坐っていたが、昏《くら》くなっているので影法師のようにみえる。
「参られたか」
 先に又左衛門を見て声をかけたのは、淡路守だった。声は少し嗄《しやが》れていた。
 又左衛門が挨拶をし、縫もつづいて挨拶すると、それにうなずいて、
「狭いところでな、窮屈でござろうが」
 淡路守の声は微笑していた。
「内証話をするにはここがよい。誰も寄りつかぬ。が、ともあれ茶屋じゃ。まず、点前《てまえ》をみて頂こう」
 縫はその様子を見まもっていた。胴服をつけた淡路守の顔は、薄い明りに馴れるにしたがって次第にはっきり見えてきた。
 去年、この任務のため、初めて会ったときよりも、顔は老けていた。髪も半分は白くなっている。皺も多い。しかし、霰釜《あられがま》の中から湯を柄杓で汲んでいる淡路守の伏せた眼には、柔和な色が漂っていた。口もともやさしいのだ。
 が、よく見ると、その眼も、口も、かすかな疲れのようなものが、そこはかとなく泛んでいた。柔和だと感じたのは、実は疲労のかげなのである。
(ご苦労なされている)
 縫は、五万石の大名で、寺社奉行の顔をそう眺めた。
 
「聞いている」
 と淡路守が云ったのは、又左衛門が縫のことを述べ終ってからだった。楽焼茶碗で一服頂戴したあとである。
「花見の騒動は聞いたが、なるほど、そのときの働きの女中が、こなたであったか」
 と縫を見た。
「左様でござる」
 又左衛門が、どこか明るい声でひき取った。
「思わぬ働きで、美代の声がかかり、菊川の部屋附になりました。淡路守様、これは何かと探索させるのに便利になりました」
「うむ」
 淡路守は、そのあとを黙っていた。
 釜には湯の沸《たぎ》る音がしている。淡路守は、あとをつづけないで、その音を聴いているような風だった。
「しかし」
 とやがて彼はぽつりと云った。
「むつかしいな」
 又左衛門の顔色が動いた。
「何と仰せられました?」
「いや」
 と淡路守は又左衛門にかすかに笑いかけて、
「そこまで踏み込んだのは偉い。が、大変なのはそのあとじゃ。相手は海千山千の油断のならぬ者ばかり。こちらは利口でも女ひとり。容易ではないと申したのじゃ」
「淡路守様」
 又左衛門が膝をすすめた。
「手前の口から申すも、おかしなものですが、これは元来が確《しつか》り者、そのご懸念はご無用と存じます。また、女ひとりと仰せられますが、一体にこのような仕事は連累《れんるい》の無い方が看破される気遣いが少うございます。愚かな者が十人よりも、かえって安全と存じますが」
「云い方が悪かったかな」
 淡路守は謝るように云った。
「縫どのが不適任と申したのではない。それは、初めて貴公が連れて来て会ったときから見込んで、わたしから頼んだくらいだ」
 縫はあかくなった。
「しかし、懸念は、今までと異って、敵の懐に入っただけに、危険も大きいということなのだ。探り出すことも容易になり、またそれだけ、もっと知りたい欲が起きる。若いだけに無理はあるまい。むつかしいと申したのはそのことじゃ」
「そのことなら、よくこれに聞かせております」
「くどいくらい云ったがよいな。縫どの、あせることはない。ゆっくりした気持で、落ちついてやって貰いたい。万一のことがあってはならぬ。いや、そのことでわたしに累が及ぶのは構わないのだ。わたしは、今度の事件では死を賭けている。が、そなたは違う」
 淡路守は、今度の事件では死を賭《と》していると云う。この人のことだから、別段、強い語気ではなく、淡泊な云い方だったが、かえってそれが又左衛門の胸に響いた。
 霰釜には相変らず湯の音がしている。端然と坐っている淡路守の姿は、部屋の中が次第に昏《くら》くなるにつれ、黒い影となってゆく。又左衛門は凝固としてそれを見つめた。
 この人は、過去に延命院一件を手入れして、大奥女中と坊主とを検挙している。歴代の寺社奉行に不可能だった仕事を、この男はやってのけたのだ。
 世間は喝采した。だから今度の再勤では、坊主びっくり貂《てん》の皮、などと云って囃《はや》し立てている。以前の手なみを知っているだけに、期待が大きいのだ。
 が、誰よりも、そのことの困難さを知っているのは、淡路守自身なのだ。滅多に、過剰な表現をしないこの重厚な男が、死を賭けている、と云い切っているのである。
 大奥という巨大な魔物。あらゆる陰湿な権謀と政治がメタン瓦斯《ガス》のように泡を吹いている腐った泥沼である。
 が、泥沼ならまだいい。同時に、これは権力の厚い壁なのだ。誰もここには寄せつけない。手を触れる者があったら、地に叩きつけられて息の根をとめられてしまう。
 淡路守が敢てそれに挑戦しようというのである。死の言葉を吐いた彼の覚悟が、又左衛門を衝《う》ったのである。
「お覚悟、お見事と拝見仕る」
 と又左衛門は云った。
「それでこそ、失礼ながらわれら安堵いたしました。淡路守様にくらべれば、われら如きものは、いつでも命を投げ出しております」
「貴殿も立派じゃ」
 と淡路守が笑って応じた。
「歴々の旗本だが、好んで身上を潰《つぶ》そうとしている」
「なんの、当節はやりの賄賂《わいろ》とか申すものはさっぱり腹の虫が好かぬばかりか、好んで上役と喧嘩する男でござる。だが、腐った臭いには人一倍我慢のならぬ方でございます。ことに眼にあまる悪企《わるだく》みが奥の方でこそこそとやられていると、意地でも噛みつきたい性分でござる」
「損な性分だ」
「これは、申されました。淡路守様こそ左様でございましょう。寺社奉行ともなれば、やがては若年寄から幕閣への双六《すごろく》道、それを棒に振られるばかりか、悪くすると、播州竜野の五万石が改易ともなりかねますまい」
「老中への出世や、わが生命は惜しくないがな、五万石の召し上げは痛い。家中の者が路頭に迷うでの」
 淡路守は微笑を消さずに云った。
「しかし、島田氏、それも今は覚悟している」

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