蔭 の 迎 え
雨の降る日である。
町医の良庵は奥で酒を飲んでいた。部屋の中は鬱陶《うつとう》しい。
玄関の方で声がしたが、これは弟子が出て応対している。七ツ(四時)近い時なので、病人は途絶えていた。
弟子が戻ってきて、
「先生、急な病人だそうでございますが、ぜひご足労をと玄関に来ております」
「誰だな?」
「それが初めての武家で、駕籠を連れてきていると申しております」
「何処だ?」
「谷中からだと云っています。ご案内するといって、場所は、はっきり申されません」
「断ってくれ」
良庵は酔った顔を振った。
「折角、酒がうまくなったところだ。雨の中を出かけることもない。まして初めての病家だ」
弟子は良庵の気性を知っている。玄関に引返して行ったが、押問答の声が聞え、やがて困った顔で戻ってきた。
「強《た》ってのお願いだとお武家は申されています。お金ならいくらでもお礼をしたいと云っていますが」
「金か。金なら要らん。断ってくれ」
「どうも、手前には歯が立ちません」
「意気地の無い奴だ。弥助、士《さむらい》であろうが何であろうが、気の向かない時は断るのだ。よしよし、お前が尻ごみするなら、わしが出てやる」
良庵は起ち上った。少々、縺《もつ》れ加減の足で玄関に出ると、なるほど、一人の中年の武士が立っていた。
「この家の主《あるじ》です。折角ながら今日はどこもお断り申す」
良庵は酔った声で云った。
「ただ今、申し入れましたが、急病人故、ぜひまげて診て頂きたいのですが」
迎えの武士は云った。
「お断りしたいとご返事している」
良庵は答えた。
「金のことを云われたそうだが、それもあまり気が向きませんでな」
「いや、それは失礼を申した。なにしろ寸刻も早く診に来て頂きたいばかりに申しましたが、他意あってのことではありません」
武士は良庵の赤い顔を見上げたが、おだやかな微笑を湛《たた》えていた。良庵は知らないが、これが西丸添番の落合久蔵であった。
「しかし、どうやらご酩酊《めいてい》のご様子。しからば、よその医者を探すといたしましょう」
「お待ちなさい」
良庵が大きな声を出した。
「酔ったと申されたな。しからば、酔ったから病人の診療《みたて》は出来ぬと云われるのか? 面白いことを申される」
添番落合久蔵は良庵に云った。
「いかにも酔っておられては、診療も叶うまい」
「参ろう」
と良庵は急に云った。
「いささかの酒を食らっているからとてわたしの腕を疑うとは奇怪な話だ。これでも若いときには長崎で修業して腕には和蘭陀《おらんだ》渡りの筋金が入っている。あんたがこの界隈を走り廻っても、わたしほどの医者は無い筈だ」
良庵は酔った上に、さらに顔の筋肉が怒張した。
久蔵は良庵の顔をじっと見ていたが、
「左様なればお越し願おう。なにしろ急病人故、寸刻も早く医家を迎えよとのことで、駕籠も用意して来ています」
その言葉が良庵の耳を咎めた。
「なに、それでは病人はあんたの主人筋か?」
「いや」
と久蔵は曖昧に返事しようとしたが、思い直したか良庵の傍に一足寄って、
「実は、さる高貴のお方が外出《そとで》の先で患いつかれたのでござる。されば、くれぐれも粗忽のないようにお診立てを願いたい」
「高貴の方?」
良庵は云って失笑した。
「それはありがたい。当節、下賤の患家しかもたぬわたしには滅多に無い機会《おり》じゃ。医者|冥利《みようり》に拝まして頂く」
それほどとは思っていない。笑った時の臭い息が久蔵の鼻を打った。
「弥助、弥助」
と奥へ向って弟子を呼んだ。
「薬箱の支度じゃ」
その用意が出来て、弟子が薬箱を抱えて師匠の供をする気でいると、
「それは無用です」
と久蔵はおし止めた。
「薬箱ならわたしが持とう。今日は良庵どのおひとりでお越し願いたい」
「やれやれ、お前は要《い》らぬそうじゃ。何でもよい、参ろう」
良庵は面倒臭そうに草履を突っかけた。足が揺れていた。
待たしてあった駕籠は立派なものである。その辺の辻駕籠の類《たぐい》ではない。
「やあ、これは大そうなものだ」
良庵は見て、はじめて首をひねった。
「まず」
と久蔵が良庵の肩を抑えて、駕籠の中に押し込むように入れた。
良庵は坐ったが、尻から背中に敷いた座蒲団も厚くて柔いもので、日ごろ乗りつけた辻駕籠と違って快適であった。
「急いでくれ」
駕籠の傍で久蔵が云った。
良庵はうとうとと眠った。大そう気持がよかった。
ただ、夢うつつに、眼のあたりに邪魔なものがあった。深い眠りの快適を妨げるものがあるとしたら、そこの部分だけ自由を緊縛されたような感じであった。しかし、それで眼が醒めることもない。例えば、寝顔に蠅がとまって無意識に顔をしかめるようなものである。
無論、どの道を駕籠が通り、どれくらい時間が経ったか分らない。
揺り起された。
良庵は眼を開けたが、まだ眠っているのかな、と思った。暗いのである。
手をとる者がいる。
「そのまま、お上りなされ」
久蔵の声だった。
夢ではない。おかしいと思った。まだ何も見えないのである。
はっとした。眼かくしされているのだ。眠っているときに、妙に不自由な感覚があったが、手拭いが眼を縛っているのだった。
思わず、手をかけようとすると、
「そのまま」
これは聞いたことのない別の男の声でその手を押えられた。
「これは理不尽な」
良庵が声を上げようとすると、
「騒がれるな」
と云ったのは女の声だった。それも抑えるような調子で、
「仔細《しさい》あってのことです。別にそなたに危害を加える訳ではない。ただ、われらの手のとる方へおすすみなされ」
「わたしは頼まれて病人を診《み》に来た医者だ。このような扱いに遇う道理はない」
良庵は抗議した。
「分っています。でも、こちらに少々事情がある故、しばらく御眼を塞《ふさ》ぎました」
「勝手な云いようだ」
「それも承知。が、あまりお騒ぎなさると身のためにはなりますまい。おとなしくなされていたら、われらはお手前をお迎えしたもの、決して粗略な扱いは致しませぬ」
これ以上、粗略な扱いがあろうか。が、声を呑んだ。黙ったのは理由がある。
面白い、と思ったのだ。医者の迎え方が変っている。秘密めいて、いやに仰々しい。あたりの気配から感じると、相当に大きな屋敷らしいのである。それにいろんな人が居るようだ。鬼が出るか蛇が出るか、試してみようと思った。
「病人はいずれじゃ?」
医者は云った。
「こうおいでなされ」
女は安心したように、良庵の片手をひっぱった。良庵の鼻には、女の身体につけた芳香が匂った。
廊下を踏んで歩いたが、それはいくつも曲っていた。
女の芳香は相変らず風のように漂ってくるが、その漂いの中に、突然に線香の匂いがまじってきた。
良庵は、ぎょっとした。病人はすでに仏になったのかと思ったのだ。が、すぐに線香は鼻から遠ざかった。
おかしな家だと考えた。眼かくしは依然として外されないままである。一方の手は女の柔い手が握って導いている。
「そこは二段上って」
とか、
「今度は曲りになる」
とか注意してくれる。声からすると、かなりの年増のようだった。それに良庵の背後からも数人の跫音《あしおと》がしていた。
「ここまで」
と女が云った。実際に立ち停った。すると、うしろについて来た跫音は去った。
「ご不自由をかけました。それではただ今から眼の布を除《と》りまする」
うしろに廻って、眼かくしの結び目を解いてくれた。ばらりと外れた。良庵は両手で眼を擦《こす》った。痺《しび》れたようで、しばらくは視界は明かない。
やっと普通になって、まず女を見て愕いた。椎茸髱《しいたけたぼ》で、きれいな襠《うちかけ》を着ている。明いたばかりの眼にこれが入ったから、あっと思った。
「良庵どのと申されたな」
と女は云った。良庵はすぐには返事の声が出なかった。酔がさめていた。
「ご病人は高貴のお方ゆえ、粗相の無いように」
同じ注意を前に迎えの男から聞いた。しかし、芝居でしか見たことのない、大奥女中の身分ありげな装いをしたこの女から聞くと、良庵も別な世界に踏み込んだような思いがして、知らずに頭を下げた。
しかし、御殿にしては、いやに建物のつくりが異っていることに気づいた。広い家には違いない。だが、絵草紙などで見た御殿はもっと華やかで立派であった。
襖《ふすま》も、杉戸も、素っ気ない造作であった。が、それだけに、金糸の縫取りを附けたこの女中の襠の華美が浮き立つように鮮かであった。
襖の前に女中は襠《うちかけ》を捌《さば》いて膝を突いた。
「ただ今、医者を召し連れました」
誰も居ないところに向って云っているようだった。襖の内部からは何の返事もない。
その代り、襖は内側からひとりでに開いた。良庵は内部を見た瞬間、眼の中に一どきに色彩がとび込んできた。
綸子《りんず》の蒲団が重ねてある。眼のさめるような派手な模様の蒲団の中では、かすかに呻《うめ》き声が聞えていた。
外には雨が降っている。部屋の中は薄暗かった。
美しい蒲団の色は、それでも浮き上っている。これも椎茸髱の女が蒲団に手をさし入れて動かしていた。いうまでもなく、病人を介抱しているのだった。
「昼ごろより急にご気分がお悪くなられましてね」
案内した年増の女中が良庵に小さい声で云った。
「みぞおちのあたりが落ちつかぬと仰せられましたが、そのうちお嘔《は》き遊ばすのです。早くおさまるようなお手当をなされませ」
女中の云い方には権高なところがある。が、それは抑えるような声によく似合った。良庵は不思議と抵抗を感じなかった。別な人種に接したような愕きがまだ残っている。
良庵がうなずくと、
「これへ」
と女中が誘った。良庵はいざり寄って病人の枕元にすすむ。
その枕には大ぶりな椎茸髱が揺れていた。顔を下に伏せているのだ。よく見ると、畳の上に油桐《ゆとう》を折って敷き、小さい盥《たらい》が置いてある。盥には紫色の袱紗が掛けてあった。盥の内容は嘔吐物らしかった。
「いかがなされましたかな?」
医者は訊いた。病人は乱れかかった髷を振って答えない。
「それでは、上に向きを変えて下され」
介抱していた女中は若く、可愛気《かわいげ》な顔をしている。これが手を添えて、病人の身体を仰向きにした。
大儀そうに寝返りした女の顔は、昏い中に白い花が咲いたようである。きれいだ、と良庵さえ思った。年齢《とし》は若くはないが、女の旺《さか》りか、甘酸《あまず》っぱいような匂いが鼻を打った。
女は眉をしかめ、眼を閉じて、唇を苦しそうに曲げていた。白い歯がわずかにこぼれた。
「いかがなされました?」
良庵はもう一度同じ問いを発して、女の顔を覗き込んだ。
女は唇から微かなうめきを洩らしているだけで応答しなかった。
「腹痛がいたしますか?」
病人の代りに傍の女が云った。
「お腹痛《はらいた》は無いそうです」
良庵は、直接の応答が聞けなかったので、やや不満気に、今度は黙って蒲団の下に手をさし入れた。
握られた女の手がぴくりとした。良庵は指で脈の在りばを探したが、まるで象牙の細工でも撫でているようにすべすべしていた。
良庵に脈をとられている間、女の顔はさらに眉を寄せていた。
「それでは、お腹《なか》を拝見しましょう」
良庵は手を放して云った。
女は白羽二重の下着で寝ている。蒲団の下の良庵の手は羽二重の上から腹を撫でるように軽く抑えた。
「痛みますかな?」
女は、かすかに首を振った。
「ここは?」
手はみぞおちのあたりにさわった。柔かい絹の上だから肌に触れるようである。脂肪の厚みが知られるのは、病人が女ざかりだからであった。
この時、女は眉の間に皺を寄せて苦痛の表情をした。口をかすかに開いた。
しかし、声は出さない。始終、沈黙を守っていた。女の体臭と芳香とが良庵の鼻をついてくる。彼は顔をしかめた。
手を蒲団から抜き出すと、小盥《こだらい》の上に蔽ってある縮緬《ちりめん》の袱紗をはぐり、病人の吐瀉物《としやぶつ》をのぞいた。
それから黙って女の顔を観察していた。
「お伺いするが」
と傍の女に訊いた。
「ご病人は、今朝、何ぞ変ったものを召し上りましたかな?」
「別段に」
と答えたのは、良庵を手引きしてくれた年増の女であった。
「心当りがありませぬ。食べものは別して吟味されたものばかりで、左様なはずはない」
「左様、左様、その筈じゃ」
良庵はうなずいて、眼を再び病人の白い顔に戻した。それから見るともなく、枕元に視線を移した。
この女は莨《たばこ》をたしなむのであろう、錦の切れでつくった女持ちの莨入れが置いてあった。幅四寸五分、竪《たて》二寸五分くらいの叺《かます》形で、裏には紅の繻子《しゆす》がついている。良庵の眼はその銀の金具に落ちていた。丸に梅鉢の象眼《ぞうがん》である。
「もしや霍乱《かくらん》ではありませぬか。それならすぐに痛み止めのお手当をなされ。いずれ本復の治療は、帰ってよりゆるゆると受けます」
女が横から云ったので、良庵は眼をいそいで返した。
「霍乱と仰せられるか」
良庵は笑った。
「霍乱ならよろしいが」
「何と云われる?」
「ご病人の前ではお話しも出来ぬ。どこか別室に参りたい」
女の顔に僅かな変化が起った。黙って、自分から先に起った。
その部屋は狭かった。明り障子の向うに雨の音が聞えている。
良庵は、女に向い合って坐った。
「まずお訊ねしますが、ご病人にはご亭主が居られますか?」
女は首を振ったが、顔色が蒼くなっていた。
「そ、それは」
椎茸髱の女は、何かを察知してうろたえた。
「お前さまには、返答は出来ませぬ」
「左様か」
良庵は微笑した。
「これは余計なことをお伺いしました。わたしは、では、診立《みた》てだけを申し上げますかな」
女は黙っている。良庵はそれへいざり寄ったので、女が少し身を退《ひ》いた。
「ご病人は霍乱ではありませぬぞ」
「………」
「あれは、おめでたです」
「え」
「女のおめでたは、つまり妊娠《みごもり》です。胸がおさまらずに吐いたりなされるのは|つわり《ヽヽヽ》の徴候じゃ」
覚悟していたようだが、女は、はっきりと聞かされていよいよ顔色を蒼くした。彼女は別間に寝ている女をうかがうようにした。
「それで、いく月になりますか?」
女は小さい声できいた。
「左様、三月《みつき》かと思われます。この秋には目出度くご出産ということになりましょうかな」
「三月……」
女は考え込んでいるようだった。顔をうなだれ、眼を閉じている。襠の前をかすかに合せた。
別間から呻きが起り、口から吐く異様な声が聞えた。
女は思わず耳を塞《ふさ》ぐようにして、
「良庵どの。何とか、あの不快が癒りませぬか。われらは刻限があって、それまでには帰らねばならぬ者。このままでは帰るにも帰られませぬ」
「ははあ、当座の手当をしてくれろと云われるか?」
「頼みます」
「ふうむ、しかし、なにしろ|つわり《ヽヽヽ》だでな、腹の始末からかからねば癒らぬが。左様なれば、よろしい。胸のむかつきだけは何とか薬でとめて進ぜましょう」
「ぜひ、頼みます」
女はいくぶん生き返ったような顔をした。しかし、色はやはり蒼かった。
再び、もとの居間にかえると、女は蒲団の横に匍《は》い寄り、
「ただ今、医師がお薬をさし上げます故、ほどのうお楽になられましょう」
と枕元にささやいた。
病人はやはり一言も答えない。苦しそうに枕に顔を伏せていた。
「それでは」
良庵が再び病人の前に進んだ。薬箱はいつの間にか持ち込まれて、横に置いてあった。良庵は、また枕元の莨入れに眼をとめた。
良庵は薬を調剤した。
「これをお呑みなされ。少しは胸がおさまりましょう」
病人は白い顔を少し上げ、苦しげな息をついた。
良庵が見ても佳《い》い女だった。三十前後の年齢のようだが、暮しが高級なのか肌のきめが細かい。ほかの女たちが主人のように仕えているところを見ると、云われた通り、身分ありそうだった。
ものは相変らず云わない。唖でないことは無論だ。どんな声が出るか、聞きたいくらいであった。
この女たちが、変った方法で医者を招いたわけが分りそうだった。町医者が診察するような人種ではない。外出の途中で患ったというが、現在、寝ついている場所を知られては困るのだ。困る理由があるから、駕籠の中で目かくしされた。道順を分らなくするためである。
病人が湯呑の水を、薬と一緒にごくりと呑んだ。白い、きれいな咽喉《のど》が動いた。頬には乱れた髪筋が粘りついている。良庵でさえうっとりした。
「それでは、お大事に」
良庵は病人に云い、膝を起した。
例の年増の女中が、前の別間に導いて行き、
「お世話になりました。それで、どれほど経ったらおさまりましょうか?」
ときいた。
「まず、あと半刻ですかな」
「半刻?」
女中は困惑した顔をした。
「もそっと、早う癒りませぬか?」
良庵は、さては門の刻限に間に合いかねるので気を揉《も》んでいるのだなと考えた。もはや、この大奥女中たちが公式の外出をしているのでないことは確実だった。
「左様、それは介抱次第ですな」
女中はうなずいたが、良庵の顔に強い視線を当てた。
「良庵どの。今日のことは他言はなりませぬぞ」
急に居丈高になった。これも佳い女だけに、睨むと眼が凄い表情となった。
「ここに来たことも、どのような病者であったかも、一切、他に洩らしてはなりませぬ」
きっぱりと宣告するように云った。
「もし、うかつに他人に洩らすと、生命にもかかわりましょうぞ」
面白い、と良庵は心の中でうなった。が、露骨には顔には出さぬ。
彼は、威に打たれたように低頭した。
「医者は病者のことはしゃべらぬものでございます。ご安心なされ。その代り、薬代を少々おはずみ下され。なにしろ不自由な扱いで参りましたのでな」
女は小判二枚を出した。
「礼金です」
良庵は眼をむいた。二両とは法外な薬代である。こんなにくれるとは思わなかった。
が、この中には無論、口止め料が入っている。
「忝《かたじ》けなく頂戴いたします」
良庵は丁寧に礼を云い、袂の中に落した。
「それでは、これで」
暇を告げて立ち上り、次の間に出ると、
「しばらくお眼を塞いで下されませ」
と別の椎茸髱の女が布で眼かくしをした。来た時と同じ方法で帰すらしい。
良庵はおとなしくした。その手を女が握って案内する。一歩一歩、足もとを探るようにして手引かれた方へすすんだ。
「ここから曲ります」
「ここは二段下りて」
と案内人はきれいな声で注意した。まさに来た道を通って行くのである。
(この辺で、線香の匂いがしていたが)
と良庵が思っていると、果してその匂いが鼻に漂ってきた。
随分、広大な屋敷らしいが、所有者はどのような人間か見当がつかなかった。遠くで跫音がいくつもしているところをみると、使用人も多いらしい。
このとき、読経の声が離れて聞えてきた。
(寺だ!)
迂濶な自分に気づいた。なるほど線香の匂いがする筈だった。建物の様子も寺だと知ると合点がゆく。
読経はすぐに止んだ。誰かが注意したらしい。が、経の文句は耳に入らなくても、それが法華だとはすぐに分った。ちょっとの間だが、太鼓も鳴っていたのだ。
さては、と良庵はひとりで合点した。
ちかごろ噂に高い大奥女中のお寺詣りである。身分が高いだの、高貴のお方だの、しきりと云っていたが、あの女は代参の年寄であったか。
その高貴の代参女中が、つわりで悩んで町医者を呼んだのは、不覚にもただの腹痛と勘違いしたからである。やはり、下々《しもじも》の女とは違う、と良庵は感心した。
妊娠の相手は誰か。男禁制の大奥だから、これはお城の外以外にはない。良庵は噂にあやまりのないことを知った。
それにしても、あの女は誰だろう。枕元には女持ちの錦の莨入れがあった。金具には丸に梅鉢の紋がついている。良庵の眼にまだそれがはっきりと残っていた。
あの紋は、女の家紋か、それとも拝領物か。──
良庵の腕をとっていた手が、急に男の手に代った。
「ご苦労でしたな」
と云ったのは、迎えに来た男の声である。女の手から男の手に移されて、声まで前に返った。
良庵は駕籠の中に入れられた。すべて逆の順に運ばれてゆく。
一体、あの寺は何処だろう、と良庵は思案しつづけていた。法華宗の寺ということだけは確かである。しかし、ご時勢で法華太鼓を打つ寺が近ごろむやみにふえた。
中でも、大奥女中の代参で、毎日、女乗物が絶えないと評判されているのは中山の智泉院だが、これは江戸から四里の遠さであるから、それでもない。
駕籠に揺られて頻りと考えているうちに、良庵は、ふと妙計が浮んだ。
眼はふさがれて、外を見ることは出来ない。相手は道順を知られたくない目的で、こんな失礼な待遇をしているわけだが、眼は見えなくとも見当はつこうというものだ。
つまり、乗った駕籠がどう動き、どう曲るかだ。
(来るときは不覚にも酔って睡っていたが、今度はそうはいかぬぞ)
駕籠はしばらく真直ぐに歩いて行くようだ。耳をすませたが、人声は無い。寂しい道らしい。駕籠の横にぴたぴたと草履の音がするのは、迎えに来て、今度は送る役目のあの男のものである。良庵の背中が揺れた。駕籠が曲った。
(ははあ、左の方へ行ったな)
あの寺を出て最初の曲り角である。
そのまま、まっすぐに行っていたが、今度は早く左に曲った。
(どの辺か分らぬが、三つ角かな)
また、しばらく歩いていたが、右に揺れた。どうもこみ入った道を行くようだ。
(よし、覚えておくぞ)
道の長さと、曲り角の数を記憶する努力で良庵は懸命になった。
そのまま駕籠は歩いて行く。
「良庵どの」
突然、男の声が聞えた。送ってくれる男が話しかけたのだ。
「ご病気は何でございましたな?」
「霍乱でござる」
良庵は答えた。
「霍乱?」
男は云ったが、
「お診立ては、真実、霍乱ですか? 他にもお疑いは?」
ときいてきた。
「わたしの診立てに誤りはない。あれは霍乱だ」
と良庵は断言して答えた。
男はそれきり黙った。良庵は駕籠の動きを覚えるのに一生懸命である。
「良庵どの」
駕籠の傍を歩いている男がまた云った。
「何じゃな」
良庵はこの男が煩《うるさ》くて仕方がない。道順の暗記の邪魔になる。
「霍乱とはいかなる病症でございますかな?」
「されば……」
駕籠が右に曲った。遠くで人声がしている。どこかに町家があるらしい。
「万安方の巻十一に、霍乱の状は、吐かず痢せず、気喘《きぜん》悶絶、而《しこう》して心腹|張《は》りて痛むなり、今人之を知らず。内癰《ないよう》のためと称す。治むるに、人命を誤る、悲しむべし、とある。昔から大病とされたものだが、当今では医術がすすみ、さほどでもない」
「なるほど」
良庵の身体が前のめりになった。坂道を下っているらしい。どこの坂かな、と思っていた。
「それでは、やはり口から飲食するものによって病の原因《もと》になりますか?」
「左様」
面倒臭くなった。第一、人の眼の自由を縛っておいて、質問もないものだ。
「それは、ちと、おかしい」
男の声が不審げに呟いたので、良庵は、おやと思った。
「さほどの悪い食物を召上るお方ではない。霍乱とは解せぬ」
良庵は返事をしない。一体、この男は何を訊き出そうとしているのだろう。単純に病人の症状を気遣っているだけではなさそうだ。その口吻《くちぶり》には好奇心がよみとれた。
(他言は無用じゃ。他人に洩らすと、お命にも係りますぞ)
と女がおどかすように云った言葉が思い出された。厳秘である。無論、下役のこの男が真相を知る訳はない。だが、男の疑い深い質問には、うすうす何かを察知したようなところがあった。
良庵はふと、あの女が何者か、この男の好奇心からひき出して探ってみたい気が起った。
駕籠は相変らず進んでゆく。良庵の耳に、笛や太鼓の音が遠方から風に送られてかすかに届いた。
祭だな、と思った。耳を澄ますと、人のざわめきまで微かに交っているように思える。
(どこの祭だろう?)
そうだ、これが鍵になると考えついた。
今日の祭はどこだったかを調べる。たしかに方角を知る重要な手がかりであった。
(よし、必ず突きとめてやる)
眼かくしされて連れて行かれた腹癒《はらい》せもある。それに良庵自身が大きな好奇心に動かされていた。