陽《かげ》 炎《ろう》 の 絵
水野美濃守は、はっとなった。
老中水野越前守は威儀を正して、美濃守を睨《ね》めつけている。山のように動かない正しい姿勢で、美濃守が、思わず肩をぶるんと慄《ふる》わせたほどだった。
「御沙汰じゃ。水野美濃守、頭《ず》が高かろう!」
越前守が叫んだ。
本能的に美濃守が一膝すべって両手をついた。これは、将軍家の言葉だから、聴く作法になったまでだ。しかし、越前守の威厳が美濃守を威圧して平伏させたともいえる。
「そのほう儀……」
越前守が、美濃守の頭上で云った。
「菊の間|縁頬詰《えんがわづめ》仰せつけらる。奥へ立戻ることは相成らず、直ちに表へ出よ」
聞いている美濃守は仰天した。わが耳を疑ったというのが、このときの実感で、坐っている畳が傾いたか、と感じた。頭の中が虚空《こくう》のように軽くなり、急に自分の身体が冷たくなった。
「分ったら、相起ちませい!」
越前守が、追うようにつづけた。
美濃守は咽喉《のど》がひきつって声が出なかったが、それでも必死に顔を上げた。額も頬も汗が流れていた。
「う、伺いたき儀がござる」
美濃守は越前守に向って喚《わめ》いたが、わが耳にも、自分の声とは思えなかった。
「何じゃな?」
越前守が、皮肉に微笑したようだった。
美濃守は胸が逼《せま》って息苦しかった。
「て、手前、落度は、いかなる仔細か、承りとうござる」
将軍家の沙汰には、当人から理由を訊き返さぬのがしきたりだ。美濃守の反問は、勿論、老中水野越前守への詰問であった。
「ははあ、それを訊きたいと云われるか?」
越前守は、おとなしい眼に返っていた。
「しかと承りとうござる」
「されば申し聞かす。そのほう、ならびに林肥後守の出したる大御所様ご遺言と称するお墨附は、真赤な偽筆と相分った」
美濃守は、それを聴くと指先まで震《ふる》えた。
「こ、これはしたり、勿体なくも大御所様お墨附を偽筆などとは……、な、なにを証拠に」
「黙れ」
越前守は大喝した。
「文恭院様御台所にお目にかけたところ、はっきり偽書であると仰せられたわ」
あっ、と叫んだ。家斉夫人が否定したのだ。美濃守は、忽ち、越前守の黒い罠《わな》にかかった己《おのれ》を自覚した。
「これ」
越前守が、目配せすると、うしろより目附が二人入って来て、茫然自失している美濃守の肩をつかんで引立てた。
美濃守は、虚《うつ》ろな眼をして長い廊下を目附の腕に倒れかかるようにして歩いた。中の間《ま》の境までくると、目附は美濃守の肩を押しやって、彼を放逐した。
美濃守の貶黜《へんちゆつ》は、側用人を免ぜられたことだけではなく、家斉時代に受けた加増五千石は悉く取り上げられた。
若年寄林肥後守忠英の場合も、美濃守と同じであった。
これは御用部屋の下の間に入ろうとすると、相役永井肥前守が、つと起って来て、
「肥後守殿、ただ今、水野越前守殿がお呼びです」
と教えた。
林肥後守が、軽い気持で、上の間に入り、水野越前の前に何気なく坐った。政治向きのことで、何かの指示があるのかと思ったのだ。
水野越前守が、そこに坐った肥後守を見る。ふだんの眼つきで、別に変った様子もない。
「越前守殿、ただ今、何やら手前に御用がおありとのことですが……」
肥後守が訊くと、越前守は、急に坐り直して、肥後守の正面を向いた。
はてな、と肥後守が怪訝《けげん》に思った途端、
「林肥後守殿、ただ今より御沙汰を申し聴かすから左様心得られい」
と越前守の声が叱った。
はっとしたとき、
「御沙汰でござるぞ」
と越前守が重ねて叱咤《しつた》した。
肥後守が切られたように平伏する。まるで無我のうちだった。
「林肥後守、そのほう儀、かねて勤め方《かた》、尊慮に応ぜず、若年寄のお役ご免の上、菊の間|縁頬詰《えんがわづめ》を命ずる。かつ、加増の地八千石を召し上げられるにつき、左様に心得あるべし」
越前守は、ゆっくりと云った。美濃守の場合と違うのは、これはさして昂《たか》ぶりもせずに云ったことだ。
が、肥後守の耳には、すぐ傍で百雷が一時に落ちたかと思われた。あたりの声が一瞬にかき消えたのである。
あまりのことに、請け答えが出来ないでいると、
「これより御用部屋に入ること罷《まか》りならぬ。怱々《そうそう》に表へ出ませい」
と越前守が命じた。
肥後守は顔面蒼白、唖のように口が利けずに、ぶるぶる慄《ふる》えていると、
「肥後殿」
と、目附村瀬平四郎が、肥後守の肩衣をうしろから敲《たた》いた。
同じく目附牧野|中務《なかつかさ》がうずくまっている肥後守の脇に腕を入れると、乱暴な力で軽々と抱き起した。
林肥後守は抱き上げられて、ようやく足を畳につけた。顔中に冷たい汗が噴き流れていた。
爪先で畳を踏まえたが、急にあたりが黒くなって来た。最後の視界に入ったのは、越前守の嗤《わら》っているような顔つきである。肥後守は、ふいに己の身体が軽くなったと思った途端、意識を失った。
西丸側衆美濃部筑前守も、また、家斉死去後は本丸に容れられて小納戸頭取にとりたてられていた。
林肥後守は若年寄に、水野美濃守は将軍家側衆に、それぞれ出世していたから、彼らが世間の思惑にかかわらず、わが世の春のつづきをうたっていたのは無理もなかった。老中水野越前守何するものぞ、との驕慢があった。
が、これは越前守をあまりに甘く見くびり過ぎていた。人間は、そのままの位置から滑り落すよりも、一段上に昇らせてから、奈落に一挙に突き落した方が、よけいに転落の効果が大きい。
越前守忠邦にその計算があったかどうか。とにかく、故家斉の寵愛をうけた林肥後守も、水野美濃守も美濃部筑前守も、一段昇格させて陶然となっているところを、不意に落したのである。
美濃部筑前守の場合は、林肥後守や水野美濃守などよりも身分が低いだけに、悲惨であった。
小納戸頭取美濃部筑前守は、同じく水野越前守に呼び出されて、
「そのほう儀、つとめ方、思召に応ぜず……」
と罪状を申し渡された上、
「禄三千石を没収、甲府勝手|小普請《こぶしん》を申しつける」
と宣告された。
実は、美濃部筑前守は、この晩、小納戸頭取就任祝いに、親類、縁者、知友を屋敷に呼んで宴を張る支度をしていたのだ。
美濃部は、云い渡しを聞いて、御用部屋をよろぼい出た。
「甲府勝手……」
美濃部筑前守は酔ったような足どりで廊下を揺れながら歩いた。
放心した顔つきで、血走った眼をむき、呟いている。
「甲府勝手……」
甲府勝手は旗本に対する一種の処罰である。甲斐甲府城に勤務せしめるのだが、一旦、甲府に流されたら、再び生きて江戸に還るを宥《ゆる》されない。死ぬまで江戸の空を恋いながら、山を眺めて暮すのだ。甲府勝手は、山流しとも云って、いかなる不良旗本でも、その処分には慄え上ったものである。
美濃部筑前守は、ぶつぶつ呟きながら、廊下をよろよろして歩いてゆく。
事情を知らぬ者が廊下で行き合って、愕いてぶつかりそうな身体を避けた。筑前守は眼の前に何があろうが、盲目のようであった。
顔からは血の気がひいている。髪も鬢《びん》が乱れたままで、とんと狂人に違わなかった。
「筑前守様」
お坊主が二、三人、筑前守の様子に、恐る恐る寄って来て声をかけた。
筑前守はその声も耳に入らぬ様子で、相変らず、ぶつぶつと口の中で呟いていた。すでに眼の色が常人と違っていた。
石翁は懐手《ふところで》をして立っていた。
なま暖かい夜で、星一つ見えない。
見えるのは、数百挺という提灯が、立っていたり、動いたりしている。これだけの提灯が集まると、この広い一郭が、真昼のように明るいのである。
夥《おびただ》しい人夫が働いていた。その数も大そうなもので、千人近い土工が動いている。
家を壊す音が聴える。樹を挽き倒したり、塀を崩したりして、さまざまな音がしていた。土運びをしているのは、広大な池を埋めている連中だった。厄介なのは、大小無数の庭石で、人夫どもが懸け声をかけ、地面から掘り出して倒しているのだ。それを何処かに捨てにゆく組もある。
石翁は、立って、それを眺めている。
(一夜明けたら、この屋敷も田圃だ)
石翁は爽快な気がした。
負けた、となると未練を残さぬ男だった。さしも、数寄と壮大を誇った向島の屋敷を、いま、一気に叩き崩しているのである。
(越前。おれが負けた)
笑ってやりたいくらいだった。
家斉のお墨附をうかつに渡したのが不覚であった。危い、と思ったが、やはりそうだった。敵は家斉夫人に対しての工作を済ませていたのだ。
夫人は偽筆だと云った。家斉はこのような慄えた文字は書かぬと主張したという。病中だから、というこちらの言い訳は通らなかった。夫人が、夫の字を鑑定したのだ。だから間違いないというのが敵側の論拠だった。
夫人は、越前の云うことを聴いてお美代の方や石翁、水野美濃、林肥後の一派に復讐したのである。いや、夫の家斉にさえ復讐したのだ。
(見事だ。文句を云うところはない)
石翁は、向島の屋敷の崩壊する音を聞きながら、見えぬ水野越前に云っていた。
林肥後、水野美濃、美濃部筑前の三権臣の免黜《めんちゆつ》などは、敵ながら胸のすくようなやり方だった。雷が落ちたようなものだった。
(やったな、越前)
と讃《ほ》めてやりたいくらいである。
(負けた。きれいに引き退るよ)
石翁は、心の中で哄笑《こうしよう》していた。
地震のように、地をゆるがせて、大きな音がした。闇の中に、土煙が空まで立ち昇った。屋敷の大きな一棟が崩れ落ちたのである。
家も、庭木も、石も、悉く贅を尽したものだった。材も、木も、石も、諸大名が争って寄進したものが多い。向島の田圃の中に、まるで公方の住むような御殿が出来上っていたのである。
(何もかも無くなってしまえ)
一どきに数千の人夫を集めたのもそのためだった。癇性な男だけに、一刻が我慢できなかった。夜が明けるまでに、田圃にするつもりなのである。
広大、豪壮な屋敷は、文字通り、一夜のうちに消え失せてしまった。址《あと》には、瓦礫《がれき》と材木が山になっているだけである。
林のような植木も、悉く伐り払って隅田川の川風が吹き貫《ぬ》いてくる。無数の庭石のあとが穴になり、池は赤土で埋まってしまった。
(これで、せいせいした)
石翁は、懐手をして、あくびをした。
負け惜しみでなく、本気に思ったことだ。面白い夢を見せてもらった、と思えばそれでよい。大藩小藩を問わず、諸大名が争ってここまで音物《いんもつ》を持って頭を下げに来たのだ。
(生きていた甲斐があった)
と石翁は思うのである。現役は、ただの小納戸役に過ぎなかった。門地門閥も無い。それでいて、譜代、外様を問わず、各大名が彼の前に頭をこすりつけたのだ。男に生れた甲斐があったというものである。
(しかし、ちと長生きしたかな)
自然と微笑《わら》いが眼もとに出た。家斉の死と共に、彼の生命も終ったのである。もとより、家斉の一片の肉筆では防ぎようがなかった。水野忠邦が居なくても、没落は時の問題であった。悪いことは、家斉よりも、自分が早く死ななかったことである。
「これから、いずれへ?」
と用人が傍から石翁に訊いた。
「そうだな。大塚にでも行くか」
大塚、とふいに口に出して、自分でぎょっとした。別邸は、谷中、根津、吉原つづき、巣鴨、日暮しの里などにあったが、大塚が本郷に近い。やはり、心のどこかでは加賀藩邸を恃《たの》んでいるのか。
「お美代の方さまは……」
と用人が報らせた。
「本日、西丸を出られて、本郷の御守殿内にお移りになりました」
「………」
黙って、うなずいただけである。
(美代も、西丸から追い出されたか)
加賀藩邸の御守殿の主《あるじ》は、美代の女《むすめ》、溶姫であるから、わが娘のところに余生を求めたといえば立派に聞える。しかし、年々、二、三百両くらい捨扶持《すてぶち》をもらい、文恭院のお位牌《いはい》を守って、題目を上げながら、押し込め同様の生涯を終るのである。女のことだ。曾《かつ》ての栄華を想って、見果てぬ夢の未練に、泪を流すことであろう。
駕籠に乗って行く途中、石翁は、邸の近くで町家が騒動しているのを聞いた。
何だ、と訊くと、菓子屋、料理屋、酒店、餅屋など、およそ石翁のところへ音物を運びに蝟集《いしゆう》する諸藩の士を相手にした商人共が、石邸《いしやしき》の俄かの瓦壊《がかい》に、狼狽《ろうばい》して店を閉じるところであると云う。
「なるほど、これは、いかい迷惑をかけたものじゃ」
石翁は孤独《ひとり》になったのだ。もう、誰も寄りつきはしない。鼻もひっかけてくれぬだろう。老人は駕籠の中で、声を上げて笑った。
水野越前守忠邦の疾風迅雷の処断によって、家斉の寵を得ていた林肥後、水野美濃、美濃部筑前の一派が没落した。その余波が大きいのである。
今まで、石翁や、この三権臣への賄賂《わいろ》で、昇格や任官した幕吏は夥しい数である。それらが、あおりを喰《くら》って、津波をかぶったように、大浪にひき浚《さら》われてゆく。
退役や、役替は毎日のように発令され、その数は数千人に及んだ。
なかにも、悲喜劇は、田口五郎左衛門という旗本で、彼は水野美濃守の妹を女房にもらったお蔭で、加賀守と称し、長崎奉行までなり上った。それが四月十五日、勘定奉行に抜擢されて、その夜は、栄転の祝いにと飲めや唄えの大饗宴を催した。
しかるに、翌る十六日に登城したところ、田口加賀守儀、長崎奉行在勤中罪あるを以て免官、小普請入りを命ぜられ、加増分二百石を没収、その子は平常不行儀を以て、家督を下されざる旨の命が下った。
側衆五島伊賀守は、町々の抱屋敷や地面を買い込み、地代、店賃をとりあげ、上芝の辺には質店を出して、番頭には自家の紋付を着せて商売をさせ、数千両の財産をつくった。これも、美濃守一派の没落で、役儀取放、地所も取り上げられて、押込めとなった。これに類する噂は、毎日のように江戸市中に伝わった。
没落する組があれば、浮ぶ組もある。
今まで、石翁や、林肥後、水野美濃一派に睨《にら》まれて逼塞《ひつそく》していた者、賄賂を快しとせぬため、志を得ぬ者は、この度の改革で、俄かに浮び上った。
そのため、転役、退役の組と、新たに任官した組の引越しで、武家屋敷町は、地震のような騒ぎだったという。
大奥女中にも変革が起った。
美代、うた、そで、八重、いと、るりの家斉の衆妾は、いずれも髪を摘んで西丸を退った。それを取り巻いていた女中衆も、お城を退る。殊に、お美代の側近の、年寄、中老、中臈などの役職女中は、悉く追放された。
大奥は、水野越前守の改革で、一応、粛清が成った、──かに見えたのである。
この大騒動を江戸市民が喝采《かつさい》せぬ筈はなかった。
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「ひご(肥後)ろから、かね(金)て覚悟はしながらも、かう、はやし(林)とは思はざりけり」
「みづの(水野)泡、消えゆく跡はみの(美濃)つらさ、重き仰せを、今日ぞきく(菊)の間」
「肥後米も、美濃、筑前も下落して、相場の立たぬ、評議まちまち(町々)」
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早速、落首が出た。──
春の明るい陽ざしが町に落ちている。
町角に人が集まっていた。大そうな人だかりである。
その人の輪の中に、ひとりの男が瓦版《かわらばん》をもって喋《しやべ》っていた。
「東西東西、これより口上を以て申し上げまする。申し上げまする太夫は尾厄五免太《おやくごめんた》(御役御免だ)、はやし(林)は、みづのみの助(水野美濃守)、みの部ちく蔵(美濃部筑前守)にござりまする」
声は、ものうい春の昼下りを喚《わめ》いている。
「この度、ご改正につき、何がな珍しき芸道をご覧に入れとう存じますけれど、御存じの坊主(中野石翁)を初め、諸|侫人《ねいじん》ばらの仕くみましたる芸道は、道ならざる儀にて、なかなか当時の御意には叶いますまい。右につき、かねがね心づきましたる、肥後(林肥後守)下りの尾厄五免太連中が、なしくる業、馬鹿林にてご覧に入れまする。まず、五免太お目通り差し控えます。最初、相つとめまする芸道は、僅かの旗本よりだんだんと経上りまして、四ほん(品)竹の上に飛び移ります。これを名づけ権家の一足飛び、はい。是よりまた口先の勢いを以て、諸方の金銀を追々に手もとに取り入れまする。はい、かよう致しまして中段を相勤めまする者共は、手合せをいたし、自然と横しまになります。これよりなおなお登りますれば、はやし(林)につれて賄賂多きともがらは、次第に立身の体にござりまする。これを名づけて運の目、欲の川浪、これもお目にとまりますれば、八方の縁の綱は、一度に、ぷっつりと切れて、一万八千石を引くり返し、高は平の一万石と替り、八千石を棒にふります。まことにこの段は、放れ業にござりますれば、閉門のせつは、幾重にもご用捨おゆるしの程願い奉りまする……この儀、相済みますれば、ご先代の御方は一切お入れ替え。さあさあ、ご評判、ご評判……」
聴いている群衆は、喝采し、手を拍《う》って笑っていた。文句の意味は、何を表現しているのか、誰にも分った。みなが、溜飲を下げているのだ。思わず、かけ声を投げる者もいた。
この群衆の輪のうしろについて居た三人連れが、静かな足どりで、そこを離れた。
一人は島田新之助で、一人は医者の良庵だった。もう一人は新之助の傍についている豊春だった。今日は、艶やかな化粧をしているので、はたの者が、じろじろと見返るくらいだった。
「大そうな人気だな。水野越前さまは大当りだ」
良庵が歩き出して云った。
「どこへ行っても、ご改革の噂で持ち切りだね」
「うむ。みんな、今までの鬱憤《うつぷん》を晴らしているのだ」
新之助も足を運びながら云った。
「町人は、いつも黙っているが、上の方で変なことをしているのを見遁しはしないのだ。黙っているから、何にも知らないと思うと大間違いだよ」
来るときからの話のつづきを新之助はしていた。
桜の花は散ったが、葉が新緑に映えていた。飛鳥山一帯が葉桜で、その下に坐っていると、人間の顔が青く映るくらいである。
天気がいいので、花は無くとも、人が山を歩いていた。この辺一帯が江戸の行楽地だった。山の麓の茶屋も、客で大入りなのである。
茶屋から借りた茣蓙《ござ》を草の上に敷いて、新之助と良庵が酒を酌《く》んでいた。良庵が自慢の瓢箪《ひようたん》を持参に及んでいる。途方もない大きな奴だった。
蒔絵の重箱が真ん中に出ていたが、なかの料理は、豊春が朝暗いうちから起きて造ったものである。その豊春も、新之助と良庵の間に坐って、愉しそうに微笑していた。頬がうすく赧《あか》いのは、良庵から無理に酒をすすめられたせいだった。
「どこの患家を廻っても、その話でね」
医者が云った。
「石翁も林肥後も美濃部筑前も、水野美濃も散々なていたらくだ。それに引きかえ水野越前守の株の上りようは大したもんでね」
「患家は、前よりは殖えたかね?」
新之助が笑いながら訊いた。
「殖えた、殖えた。休んでいる間も長かったが、久しぶりに帰ったら、これがまた、えらい人気でね。やはり、これが、ものを云うらしい」
医者は、袖を捲って、瘠せた腕を出して見せた。
「そりゃ結構だ。永いこと休んだので、帰っても良庵さんの玄関が門前|雀羅《じやくら》を張ってるのじゃないかと心配していたところだ。食い扶持の合力《ごうりき》はするつもりだったがね」
「あなた……」
豊春が横から、新之助に眼を向けて、
「良庵先生を見くびっちゃいけませんよ」
とたしなめた。
「大きにそうだ」
良庵が笑った。
「けど、食い扶持の合力は、お志だけでも有難いね。いえさ、新之助さんが、それだけの身分になったことさ」
「役についたことかね?」
新之助はうすく笑った。
「新知三百石、当座、これで金に不自由しないと満更でもなかったが、もう、窮屈になったな。飽きっぽいおれのことだから、三日坊主になりそうだ。明日でも、気楽な小普請入りを願い出るかもしれぬ。叔父貴は、御廊下番頭になり、加増三百石でご機嫌だが、叔父貴とおれとは、骨の仕組みが違っているでな。おれのは土台が怠けものに出来ている……」
「けど、新之助さん」
良庵が惜しそうに云った。
「あんたの、その気性がわしは好きだが、折角、浮び上ったのだからね。やめるてえのは勿体ねえ話だ。それも賄賂《まいない》など使って、汚ねえことをして出世したんじゃねえ、自分の力だからね」
「自分の力?」
新之助が、眼で訊き返した。
「そうだとも。石翁一派を仆《たお》したのは麻布の大将や、あんたの力がどれだけあったか分らねえ。そこを水野越前守様が見込んで、お取立てなすったんじゃないか?」
「折角だが、良庵さん、それはちと違うな」
新之助が、口から盃をはなして云った。
「なるほど、叔父貴もおれも、少しは何かをしたかも判らぬ。叔父貴なんざ、脇坂殿と組んで、石翁一派と闘ったつもりでいるがね。なに、そんな人間の一人一人の働きなんざ知れたもんだ。そんなもので、公儀の大きな仕組みが変る訳はない。仕組みの前には、人間の小さな働きなどは、ものの数じゃないよ」
「けど、新之助さん。げんに水野越前様のために石翁や水野美濃、林肥後の連中が没落したじゃないか。美濃守なんぞは、信州高島へ永のお預けというからね、夢みてえな話さ」
「水野越前にしたところで」
新之助は云った。
「自分が石翁や林肥後の大屋台をひっくり返した気でいなさると大間違いだな。仕組みが変るのは、人間ひとりの力じゃない。人間の力ではどうにもならぬ別の仕組みが、ひっくり返すのだ。仕組みと仕組みの喧嘩さ。人間の力は、そこから、はじき出されている」
新之助は、ごろりと横になった。
「早い話が、水野越前の勢力も、いつまで続くかな。自分では大奥を退治したつもりだが、この怪物も黙ってはいまい。これも大奥という仕組みだよ。水野越前が自分の力で勝ったと思うと大間違い、いまに押えつけた仕組みに追い落される。ほら、このごろ、新しい政令が雨のように出るだろう。あの改革改革と性急なのが落し穴にならなければいいがね。実は、もう、はらはらしているところさ」
新之助は、豊春の膝に顎をのせて、じっと野を見つめていた。
「しかし、ちょいと面白かったな」
「何がだね?」
と良庵も、豊春も訊いた。
「この一年、自分のやったことさ。いまから思うと、一生懸命やったつもりだが、何の役にも立っていない。ただね……」
と野の草の上に眼を細めた。そこには明るい陽の下に陽炎《かげろう》が揺れていた。
「ほら、この陽炎のような、はかない絵を、ちっとばかり面白く見せてもらっただけだったな」
中野石翁、林肥後守、水野美濃守、美濃部筑前守などの一党が没落して間もなく、天保十二年十月に、お美代の方の実父日啓が住職をしていた鼠山感応寺が幕命によって破却させられた。
日啓は、雑司ヶ谷に二万八千余坪の地を家斉からもらって、七堂伽藍を作り、将軍祈願寺の号を申し下して、上野や芝と同格にするつもりで策動していたが、大伽藍が完成せぬうち、工事半ばで水野忠邦の命によって破壊されたのだ。
日啓は罪を問われて投獄せられたが、獄中で病を得て死んだ。
それから、七カ月経った天保十三年五月十二日、石翁中野清茂は七十四歳にして没している。牛込七軒町仏性寺に葬られた。法名は高運院殿石翁日勇大居士。──身分は僅か御小納戸役でありながら、養女美代を家斉に献じたばかりに家斉の信寵を得、法体となって隠居しても将軍相談役として随時登城し、権勢を張って驕慢を通した中野石翁は、高運院殿の戒名通り、まことに一代の幸運児であった。水野忠邦による晩年の不遇は、彼の長い生涯から見れば極めて短い時間であったといわねばならぬ。
お美代の方は、本郷赤門の御守殿の内に暮していたが、やがて実の女《むすめ》、溶姫がお国入りとなって加賀の金沢へ去ったので、仕方なく次の女末姫の縁先、浅野家の霞ヶ関の藩邸に引き取られた。
しかるに、末姫もまた、本国芸州広島へ往ったので、やむを得ず、また加州の本郷邸に扶助を頼む身となった。加州家でも、知らぬ顔が出来ぬから、下谷池の端に一戸を借り入れ、お美代の方を住まわせた。その間に、溶姫も金沢で死んだので、お美代の方はいよいよ心細い身となった。それでも、前田家ではお美代を本郷無縁坂の一寺に移して、明治初年まで女中七名をつけて世話したという。
一方、家斉側近の寵臣一派を膺懲《ようちよう》し、大奥を抑えつけて世間の喝采を浴びた水野越前守忠邦も、改革のあまりの性急による不人気と大奥の費用節減に怒った大奥女中の反撃と、反対党の策動に遇って天保十四年九月に老中を罷免された。
九月十二日、老中土井|大炊頭《おおいのかみ》が、忠邦に免職を申し渡すため「明十三日、麻上下にて登城のこと」との通告を出すと、忠邦は「癪気不参」と登城を断り、名代を出して罷免の申渡しを受けている。
さしも旭日の勢いであった忠邦も、たちまち、転落の人となったのである。栄枯は常に、人事の上に繰り返される「かげろうの図」の如きものであろうか。
水野忠邦が罷免されたと聞いた群衆は、何千人と知れず、その屋敷の前に集まって、ときの声をあげ、石礫《いしつぶて》を邸内に投げて暴行を働いたという。──改革当初、忠邦に喝采を送った同じ江戸の民衆がである。