推理小説は、基本的人権の保障される民主主義社会において発達する。そんな説を推理作家の森村誠一さんが述べている。人権をないがしろにする国では「合理的な証拠は必要なく、容疑者を捕らえて拷問にかけ、自供させれば、一件落着である」(『ミステリーの書き方』)
推理小说往往在基本人权得到保障的民主主义社会才能获得不断的发展。推理小说作家森村诚一先生谈到了他的这一观点。在那些蔑视人权的国家,则“合理的证据并不视为必需,将嫌疑人抓捕起来之后严刑拷打,只要让他招供,就能结案”(摘引自《推理小说的撰写方法》)
そんな国で小説の中でだけ証拠を積み上げアリバイを吟味してみても、確かにシラケてしまいそうだ。緻密(ちみつ)さを追求する作家ならではの発想であろう
即使在这样的国家,能够像小说所描述的那样,搜集证据,调查是否可能在作案现场等等,然而,结果却实在令人沮丧。因为那只是追求缜密的作家才拥有的创作思路。
この事件の捜査のやり方には、森村さんが前提とする合理性がどこまであったか。1979年に鹿児島県で男性の変死体が見つかった「大崎事件」である。殺人と死体遺棄の罪で10年の懲役に服した原口アヤ子さん(90)の裁判をやり直すべきだとの判断が、鹿児島地裁から出た
在该事件所采用的搜查取证方式里,森村先生视作前提的合理性达到了何种程度呢?这就是1979年鹿儿岛发现了一具非正常死亡男性尸体的“大崎事件”。现在,鹿儿岛地方法院作出了裁断,应该重新审理以杀人和遗弃尸体罪判处原口绫子女士(90岁)10年徒刑的判决。
原口さんは取調室でも法廷でも犯行を認めていない。物証もなかったが、共犯とされた夫らの自白に頼って起訴され、有罪となった。その自白もいまや「捜査機関に誘導された疑いがある」とされ、信頼性が揺らぐ。殺人事件だったかどうかも怪しくなった
无论在调查室还是在法庭,原口女士始终不承认犯罪。在没有物证的情况下,依据同案犯的丈夫等人的供认便被起诉,并被判有罪。如今,该供认被认为“有诱导搜查取证机关的嫌疑”,可信程度不堪一击。因此,究竟是否杀人事件也变得疑点重重。
「あたかも常に有罪そのものを目的とし、より重い処分の実現自体を成果とみなすかのごとき姿勢となってはならない」。検察の心構えを示す「検察の理念」の一節だ。そんな当然のことが守られなかった歴史が悔やまれる
“不得采取以判处有罪为目的,以实现更重处分为成果的态度”。这是彰显检查机关觉悟的“检察理念”中的一段。如此理所当然的准则却未能遵守,这一段历史令人遗憾。
かつて原口さんが口にした言葉が紙面にあった。「逮捕されて以降、心から笑ったことは一度もない」。無実を訴え続けた38年間は、あまりに重い。
报纸的版面上刊登着原口女士曾经说过的一句话,“遭到逮捕之后,由衷的欢笑不曾有过一次”。始终声称蒙受冤屈的38年时间,实在是太沉重了。