記憶は脳の大切な働きである。もし、「昔のことを覚えている」という心の働きや、それを支える脳の仕組みがなくなってしまうと、私たちは永遠に「現在」に閉じ込められてしまう。生まれ落ちてから死ぬまで、折りに触れ「注1」人生を振り返ってそれを愛おしむこともできなくなってしまう。記憶という脳の働きがあるからこそ、私たちは人間らしい生を享受することができるのである。
記憶を支える脳の働きについては、現在盛んに研究されている。記憶が最終的に蓄えられる大脳皮質の側頭葉、それを支える海馬といった領域の仕組みが、徐々に明らかにされてきている。一日のうちに体験することは膨大だが、なぜそのうちの一部分だけが記憶され、他のものは忘れられてしまうのか。無意識のうちに書き込むべき記憶を選別している、脳の情動系の働きも明らかになってきている。
また、記憶は、過去を振り返るだけではなく、未来に何が起こるかを予想することや、新しいものを生み出す「創造性」の働きとも関係している。実際、未来を予想するときに活動する脳の領域は、過去を思い出す際に働く脳の領域に近いことが知られているし、創造する際には、思い出すときと同じように「何かを知っている」という感覚が先導役になると言われている。「( ア )ことは思い出すことに似ている」と断言する世界的な数学者もいるほどである。
インターネット上にさまざまな情報が飛び交う現代において、自らが過去に体験したことを思い出すことは、ますます大切になってきているのではないか。情報は、単に外からやってくるだけではない、自らのなkから掘り起こすものでもある。無意識の深層に眠っていて、長い間思い出すことのなかった記憶を想起し、揺り動かし、溶かしているうちに、記憶の底に沈んでいた( イ )。
人間は現代に生きる存在であるとともに、過去をもう一度生き直すこともできる存在である。とりわけ、戦争や災害、事件といった、人類・社会に大きな影響を与えるできごとについては、折に触れ思い出し、記憶を新たにしていく必要があるのではないか。「あのときあんなことがあった」という生き生きとしたエピソード記憶を心の中で蘇らせることができるのは、人間だけに天が与えた特別な能力らしい。もちろん人間にとっては( ウ )ことが福音となる場合もある。だが、私は「思い出す」という人間の特権をむしろ大切にしたいと思う。人間は今をよりよく生きていくためにも過去を振り返り、その過去から教訓を学ぶこともできる存在なのである。
(茂木健一郎「脳の中の人生」より)
注①:折に触れ:機会があるごとに。
1、「私たちは人間らしい生を享受することができるのである」とあるが、ここで筆者が「人間らしい生の享受」と考えていることは何か。
①辛い過去を忘れることができること。
②人生を振り返ってそれを愛おしむこと。
③「現在」の一瞬一瞬を大切に生きていくこと。
④未来の夢の実現に向けて生きていくこと。
2、「「何かを知っている」という感覚が先導役になると言われている。」とあるが、その内容の説明として適当なものはどれか。
①新しいものを生み出すには、過去の体験からいかに学ぶかが大切である。
②人は過去を振り返るだけではなく、未来に何が起こるかを予想する。
③何かを創造するとき、人はまず自分の記憶の中にその糸口を探ろうとする。
④人間の想像力というのは、普段は人が忘れている古い記憶の中に潜んでいる。
3、( ア )に入るものとして、最も適当なのはどれか。
①創造する
②予想する
③記憶する
④想像する
4、( イ )に入るものとして、最も適当なのはどれか。
①懐かしさがこみ上げてくる。
②新しいものを生み出す力が湧いてくる。
③未来の何かが見えてくる。
④昔の時間がよみがえってくる。
5、( ウ )に入るものとして、最も適当なのはどれか。
①記憶を新たにする。
②過去を忘れる。
③過去を振り返る。
④未来を夢見る。
6、「私は「思い出す」という人間の特権をむしろ大切にしたいと思う。」とあるが、筆者がいちばん言いたいことは何か。
①記憶を心の中でよみがえらせることができるのは、人間だけが持つなものなので、大切にしてほしい。
②折に触れて人生を振り返って、それを愛おしむ、そんなゆとりのある人間らしい生活をしてほしい。
③過去を愛おしむだけでなく、今をよりよく生きるためにも、過去を振り返り、そこから教訓を得ることが大切だ。
④過去の記憶を呼び起こすことこそ、新しいものを生み出す「創造性」の源となるのであり、「思い出す」ことを大切にしてほしい。