日本語で「ノー」を何というのかと外国人に問われて、私が返事に窮するのは、このように日本語には英語の「ノー」にそっくり対応する言葉がないからである。日本語では、ある場合は「いいえ」と言い、ある場合は「ない」と言い、あるときは「いえ」「いや」とも言い、またあるときは「ううん」などとも言う。
このことは何を意味するのだろう。おそらく、( а )ということを語っているのではあるまいか。特に会話の場合、はっきりと否定することは相手の感情を害さないかと日本人は心配するのである。こういうところはきわめて日本的である。
それをよく表しているのが、否定形をもって聞かれた場合、肯定形で返事をするという言葉習慣であろう。たとえば、「あなたはロンドンへ行ったことはありませんか?」と聞かれると、行ったことがない場合、日本人は「はい、ありません」と答える。しかし、英語でもフランス語でもドイツ語でも、「いいえ、行ったことはありません」と答えなければならない。なぜなら、イエスかノーかの返事は、あくまで自分の意志なり行動なりについて言うのであって、行ったことがなければ「ノー」なのである。
( b )、日本人は常に相手のことを考える。相手が「…ありませんか」と聞いているのだから、その質問に対して、相手の言うとおりであれば、イエスと肯定すべきだと考えるのだ。
だから英語などの会話で、日本人にとって何よりも難しいのは、イエス、ノーの使い方である。「ノー」というのは、きっぱりと否定することであり、はっきりと断わることでもある。ところが、日本人はどうもそれが苦手なのだ。常にいくばくかの肯定の余地を残すのをマナーと考えるから、どうしても曖昧な否定表現を使うことになる。
そのいい例が、「結構です」という慣用語であろう。この「結構」という言葉は「十分満足できる状態である」ことを表す語であるが、断る場合にも用いられる。その場合は、「自分はこのままで十分満足しているので、これ以上は望みません」ということであり、本来の意味と少しも矛盾した表現ではないのだが、「コーヒー、いかがですか?」と勧められ、「結構です」(ブェリイ・グッド)といえば、外国人ははっきりとした肯定と受け取るに違いない。こうした行き違いはしばしばトラブルの元になる。
では、なぜ日本人はそのような曖昧な否定の表現を使うのか。それは、肯定とか否定というのは、主体の意志や判断について言明されることであるが、日本人はその際にも相手との関わり合いで使い分けるからである。「結構」とは「充分に満足すべき状態」の意味するので、それが相手の事柄について用いられるときには「すばらしい」の意になり、自分について使うときには「今は充分満足しているので、これ以上は望みません」という婉曲な拒絶の意となる。だから「結構です」といえば「ノー」であり、「結構ですね」というと「イエス」となる。「ね」を加えると、相手への同意であり、したがって、( c )ということになるのだ。
(森本哲郎「日本語 表と裏」より)
1、( а )に入るものとして、最も適当なのはどれか。
①英語の「ノー」に対応する日本語がない
②日本人は相手の意思を尊重する
③きっぱり否定することを日本人は好まない
④言葉でなく表情で否定の意思を伝える
2、「きわめて日本的である」とあるが、この場合の「日本的」はどのような意味で使われているか。
①謙虚で礼儀正しい
②常に相手がどう思うかを気にする
③無表情で、感情を顔に表さない
④優柔不断で論理性がない
3、( b )に入るものとして、最も適当なのはどれか。
①それにもまして
②それにもかかわらず
③それに対して
④それはさておき
4、( c )に入るものとして、最も適当なのはどれか。
①では、遠慮なくちょうだいいたします。
②お気持ちだけいただきます。
③もう充分いただきましたので、要りません。
④あなたが気に入ってくださって、私もうれしいです。
5、「その質問に対して、相手の言うとおりであれば、イエスと肯定すべきだと考えるのだ。」とあるが、それはなぜか。
①自分の意思や行動よりも、客観的にどうなったかを重視するから。
②「いいえ」という言葉の使用をできるだけ避けるのが日本の文化だから。
③事実がどうかよりも、言語習慣が重視されるから。
④質問への答えでは、質問者がどう思っているかを、まず重視するから。
6、「そのいい例が」とあるが、「その」は何を指しているか。
①肯定の余地を残す
②曖昧な否定表現
③マナー
④トラブル