1958年は就職難の年だった。その春に大学を卒業した羽田孜氏は、小田急バスに入社する。第1志望ではなかったそうだが、やりがいを見いだし、10年半勤めた。定期券を売り、観光ツアーを企画した
1958年是择业艰难的一年。就在这一年春天大学毕业的羽田孜先生进入了小田急巴士公司。虽然这并非他的第1志愿,不过却发现这一行很有奔头,竟然在该公司持续工作了10年半,销售月票,规划观光线路等等。
添乗すれば、体調のすぐれないお年寄りをいたわり、ワイパーが壊れれば雪の中、窓をふいた。政界で親しかった故浜田幸一氏は、そんな添乗員経験が「羽田君の持つ視点の低さを育んだ」と評する
在当随团工作人员的时候,他关心体况欠佳的老人;雨刷器发生了故障,他就冒着大雪擦拭车窗。据政界与他关系亲密的已故浜田幸一先生评价说,他的随团工作的经历“培养了羽田君视点接近百姓的优点”
父武嗣郎(ぶしろう)さんの政界引退を受け、選挙に挑んだのは34歳の冬。自民党の中枢を歩んだ後、政界再編をめざして離党する。非自民政権下の1994年、58歳で首相に選ばれるが、在任わずか64日。いまの憲法下では最も短い
当其父武嗣郎先生从政界引退后,34岁的那年冬季他向选举发起了挑战。在进入了自民党中枢部门工作之后,为了重组政界他作出了离党的决定。在非自民党执政的1994年,58岁的他经选举出任首相,在位时间仅短短的64天,为当今宪法之下任期最短的首相。
新生党、新進党、太陽党、民政党、民主党――。羽田氏が立ち上げに参画した党である。信条も政策も異なる非自民勢力を結集させるのがいかに困難か、消えた党名をたどるだけでわかる
新生党、新进党、太阳党、民政党以及民主党,这些都是羽田先生参与筹划组建的政党。沿着这些已经消失了的诸多政党名称回溯历史,你就能明白要团结这些无论信条还是政策都大相径庭的非自民势力该有多么的困难。
トレードマークは半袖スーツの省エネルックだった。もとは石油危機を受けて故大平正芳首相らが呼びかけた。「見た目がダサい」と一般には浸透せず、議員たちが見切りをつけた後も、「資源のない日本にはふさわしい」と愛用した
标志性特征是节能型的半袖制服。原本是因为受到了石油危机的冲击,已故首相大平正芳等人呼吁的做法。当时并不被普遍接受,认为“看上去不够利落”。在得不到议员们普遍认可之后,羽田先生却爱上了这身装束,并认为“这很适合资源贫乏的日本国情”
77歳で政界を引退し、きのう82歳で亡くなった。省エネルックはすたれたが、資源を大切にという理念は実を結んだ。クールビズや節電の広がりがその証しだろう。一方、利益誘導型の政治の一掃や地方の自立など、羽田氏が生涯かけて訴えた「政治改革」は残念ながら道半ばである。
77岁退出政界,昨天去世,享年82岁。节能措施虽以化为泡沫,但珍惜资源的理解已经生根发芽。节能节电的普及就是证据。另外一方面,羽田毕生追求的清除利益主导型政治以及地方自治的改革却半途而废了。