今でも覚えている。父が言った「えり、たばこ買ってきて」。それは、たばこが切れた父が私に言った。冗談だったのだ。当時小学校低学年だった私にはもちろんお金を使いこなす技術なんかないし、たばこがいくらで売っているのかという知識すらない。しかし私は知っていた。たばこが自動販売機で買えることを。田舎に住んでいる私の人生でまさか「はじめてのおつかい」をする日がくると、だれが予期しただろうか。それは、とても静かに幕を開けたのだった。
貯金箱に入っていた(家の中で拾った)全財産を、母に買ってもらったななめがけバッグに入れて、玄関でくつを履き、静かに言った。「いってきます」。こっそり買ってきて、びっくりさせようと思ったので、近所のおじさんへの「こんにちは。」の声も小さかったかもしれない。
田舎暮らしのため、近くの自動販売機は一・五キロ先にあり、そこまでの道のりは決して平らで楽な道ではなかった。しかし、このたばこを買うというミッションを成功させればきっと何かが変わる、うちの烏骨鶏でさえも私を褒め称えるだろう。そう信じてひたすら歩き続けた。
やっとこさ着いた自動販売機。体の小さかった私にとっては見上げる大きさだった。こわいとも思った。これが動いて
倒れでもしたら一発KOだ。そんな思いを抱きながら、満を持して全財産を自動販売機の中へ入れた。そこであることに気が付いた。たばこの銘柄がわからない。はたまたたばこには恐ろしい数の仲間がいるのだと。しかし体の小さい私に闘う相手を選ぶ余裕などないのだ。しょうがない、一番低い場所にあったボタンを押した。
これでたばこはもう手に入ったも同然、そう思った。しかし、なんだかおかしい。なにもでてこない。すると後方から音がして見慣れた車がやってきた。母だった。
母「なにしてるの!」
私「たばこ買ってるの。」
母「えぇ?お金は?」
私「入れたよ。ほら!」
母「・・・・・・二十一円。これじゃ買えないよ。」
自信満々の顔をした私に、呆れ顔の母が静かに言葉をこぼした。そしてそのまま車に私を乗せて、家まで強制送還されたのだった。
初めてのおつかいの終わりはあっけなかった。そして強制送還という形でおわってしまい、ミッションを遂行することができなかったのが二十一歳になった私の唯一の心残りである。後で聞いた話だが、父と母は家の中に私がいないことに気づき、もしかしてたばこを買いにいったんじゃ?と無駄にいい勘を働かせて探しにきたそうだ。近所のおじさんから「どっかに歩いていってたよ。」との情報提供もあったとか。