原文
卅日、日光山の麓に泊まる。あるじの云けるやう、「我名を仏五左衛門と云。万正直を旨とする故に、人かくは申侍まゝ、一夜の草の枕も打解て休み給へ」と云。いかなる仏の濁世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食巡礼ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとゞめてみるに、唯無智無分別にして正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気稟の清質、尤尊ぶべし。
現代語訳
三月三十日、日光山のふもとに宿を借りて泊まる。宿の主人が言うことには、「私の名は仏五左衛門といいます。なんにでも正直が信条ですから、まわりの人から「仏」などと呼ばれるようになりました。そんな次第ですから今夜はゆっくりおくつろぎください」と言うのだ。
いったいどんな種類の仏がこの濁り穢れた世に御姿を現して、このように僧侶(桑門)の格好をして乞食巡礼の旅をしているようなみすぼらしい者をお助けになるのだろうかと、主人のやることに心をとめて観察していた。
すると、打算やこざかしさは全くなく、ただひたすら正直一途な者なのだ。
論語にある「剛毅朴訥は仁に近し(まっすぐで勇敢で質実な人が仁に近い)」という言葉を体現しているような人物だ。
生まれつきもっている(気稟)、清らかな性質(清質)なんだろう、こういう者こそ尊ばれなければならない。