原文
黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信おとづる。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語りつゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、日をふるまゝに、ひとひ郊外に逍遥して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。それより八幡宮に詣。与市扇の的を射し時、「別しては我国の氏神正八まん」とちかひしも、此神社にて侍と聞ば、感応殊にしきりに覚えらる。暮れば桃翠宅に帰る。
修験光明寺と云有。そこにまねかれて、行者堂を拝す。
夏山に足駄を拝む首途哉
現代語訳
黒羽藩の留守居役の家老である、浄坊寺何がしという者の館を訪問する。主人にとっては急な客人でとまどったろうが、思いのほかの歓迎をしてくれて、昼となく夜となく語り合った。
その弟である桃翠という者が朝夕にきまって訪ねてきて、自分の館にも親族の住まいにも招待してくれた。
こうして何日か過ごしていたが、ある日郊外に散歩に出かけた。昔、犬追物に使われた場所を見て、那須の篠原を掻き分けるように通りすぎ、九尾の狐として知られる玉藻の前の塚を訪ねた。
それから八幡宮に参詣した。かの那須与一が扇の的を射る時「(いろいろな神々の中でも特に)わが国那須の氏神である正八幡さまに(お願いします)」と誓ったのはこの神社だときいて、神のありがたさもいっそう身に染みて感じられるのだった。
日が暮れると、再び桃翠宅に戻る。
近所に修験光明寺という寺があった。そこに招かれて、修験道の開祖、役小角(えんのおづぬ)をまつってある行者堂を拝んだ。
夏山に足駄を拝む首途哉
役小角(えんのおづぬ)のお堂を拝む。この夏山を越せばもう奥州だ。小角が高下駄をはいて山道を下ったというその健脚にあやかりたいと願いつつ、次なる門出の気持ちを固めるのだ。