原文
月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半計いちりはんばかりに有。飯塚の里鯖野と聞て尋ねゝ行に、丸山と云に尋あたる。是庄司が旧館也。麓に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家いっけの石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし、先哀まずあはれ也。女なれどもかひゞしき名の世に聞えつる物かなと袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞えば、爰ここに義経の太刀・弁慶が笈をとゞめて什物じふもつとす。
笈も太刀も五月にかざれ帋幟かみのぼり
五月朔日ついたちの事也。
現代語訳
月の輪の渡しを舟で越えて、瀬の上という宿場町に出る。源平合戦で義経の下で活躍した佐藤継信・忠信兄弟の父、元治の旧跡は、左の山のそば一里半ほどのところにあった。
飯塚の里、鯖野というところと聞いて、人に尋ね尋ねいくと、丸山というところでようやく尋ねあてることができた。
「これが佐藤庄司の館跡です。山の麓に正門の跡があります」など、人に教えられるそばから涙が流れる。
また、かたわらの古寺医王寺に佐藤一家のことを記した石碑が残っていた。
その中でも佐藤兄弟の嫁(楓と初音)の墓の文字が最も哀れを誘う。女の身でありながらけなげに佐藤兄弟につくし、評判を世間に残したものよと、涙に袂を濡らすのだった。
中国の伝承にある、見たものは必ず涙を流したという「堕涙の石碑」を目の前にしたような心持だ。
寺に入って茶を一杯頼んだところ、ここには義経の太刀・弁慶の笈(背中に背負う箱)が保管されており寺の宝物となっていた。
笈も太刀も五月にかざれ紙幟
(弁慶の笈と義経の太刀を所蔵するこの寺では、端午の節句には紙幟とともにそれらを飾るのがよいだろう。武勇で聞こえた二人の遺品なのだから、端午の節句にはぴったりだ。初案「弁慶が笈をもかざれ紙幟」)