原文
それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造て末松山(まっしょうざん)といふ。松のあひゝ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終(ついに)はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞。五月雨の空聊はれて、夕月夜(ゆうづくよ)幽に、籬(まがき)が島もほど近し。蜑(あま)の小舟(をぶね)こぎつれて、肴わかつ声ゝに、「つなでかなしも」とよみけん心もしられて、いとゞ哀也。其夜盲法師(めくらほうし)の琵琶をならして、奥上るりと云ものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず、ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚らる。
現代語訳
それから野田の玉川・沖の石など歌枕の地を訪ねた。末の松山には寺が造られていて、末松山というのだった。
松の合間合間はみな墓のの並ぶところで、空にあれば比翼の鳥、地にあれば連理の枝「比翼連理」という言葉があるが、そんな睦まじく誓いあった仲でさえ最後はこのようになるのかと、悲しさがこみ上げてきた。
塩釜の浦に行くと夕暮れ時を告げる入相の鐘が聞こえるので耳を傾ける。五月雨の空も少しは晴れてきて、夕月がかすかに見えており、籬(まがき)が島も湾内のほど近いところに見える。
漁師の小舟が沖からこぞって戻ってきて、魚をわける声がする。それをきいていると古人が「つなでかなしも」と詠んだ哀切の情も胸に迫り、しみじみ感慨深い。
その夜、目の不自由な法師が琵琶を鳴らして、奥浄瑠璃というものを語った。平家琵琶とも幸若舞とも違う。本土から遠く離れたひなびた感じだ。それを高い調子で語るから、枕近く感じられてちょっとうるさかったが、さすがに片田舎に古い文化を守り伝えるものだから興味深く、感心して聴き入った。